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捕縛 25

昨夜はよく眠れなかった。 電話の事や引っ越しの事、その後の事を考えると、とても安眠なんてできなかった。 いや。安眠なんて、向田とこうなって以来していない。眠りにつく前の心地よいまどろみも、安らかな休息も皆無だった。 「おーい椎名、お客さん」 どうしたら引っ越し先でも電話を使えるだろう。引っ越しても、市外局番の同じ場所で同一契約者なら、同じ番号を使えるのではないだろうか。でも、自宅の電話の契約者は父だから自分が勝手に電話回線の変更手続きなんてできないし……。 「椎名ー?」 そうか。電話なら、こちらからかければいいのだ。向こうからかかってくるのを待つだけなら電話番号が変わると困るが、こちらからかける分にはどんな番号だろうと構わない筈だ。今はあまり見なくなったけど、公衆電話からもかけられるかもしれない。 ――――そんな事も思い付かなかったなんて、自分はどうかしてる。自宅の電話が国際電話の発信制限をつけている為にこれまで受ける事しかできなかった事を考慮しても、相当頭の回転が鈍っている事は否めない。 「おーい!聞いてる?なあ!」 肩を揺すられて、春はようやく自分が話しかけられていることに気がついた。 ――――というか、いつ1限目の授業が終わったのだろうか。考え事をしている内に、すっかり周囲は騒がしくなっていた。その休み時間の喧騒すら、今の今まで全く耳に入っていなかった。 春の机の前に立って声をかけてきているのは、そんなに親しくしている訳でもないクラスメイトだ。席も遠い筈なのにわざわざどうしたのだろう。 「何?」 純粋な疑問を口に出すと、クラスメイトは一層怪訝な顔付きになった。そして、呆れた様にため息をつくと、ゆっくりひとつひとつの言葉を区切りながら言った。 「お・きゃ・く・さ・ん」 クラスメイトに指差されたドアを見やると、そこには紫音が立っていた。 それを見て、春は一気に目が覚めた様な感覚になった。 イスを鳴らして勢いよく立ち上がると、慌てて駆け寄った。 約束を破ってしまったことをこっちから謝りに行かなければならないと思っていたのに、自分のことでいっぱいいっぱいになってしまっていた。 きっと怒っている……。そう思って見上げた紫音の顔は、怒っているという程険しくなくて、どちらかと言うと憔悴しているように見えた。 「紫音、一昨日のこと……ごめんな」 責められるのを覚悟の上で口にすると、紫音は首を横に振った。 「そんなこと、全然いいんです!ハル先輩が無事で、消えてなくて本当によかった」 「え…」 困惑する春をよそに、紫音は春の両肩に手を置くと、確かめるようにぽんぽんと軽く叩いて、そのままきゅっと掴んだ。 「ハル先輩だ。ちゃんといる。よかったーー」 春はますます困惑した。 すっかり意識は現実に戻ったつもりだったが、まだ頭がちゃんと働いていないのだろうか。だから、紫音の行動と言動の意味がよくわからないのだろうか。 「あ、すいません」 少しだけ顔の赤い紫音が、はっとした様に慌てて春の肩から手を離すと、早口で言った。 「俺ハル先輩何かあったんじゃないかと思って、一昨日も昨日も家まで行ってみたんですけど、いなかったからすげー心配で夜も眠れないくらいで。心配性過ぎですよね」 紫音は頭をかきながら照れ笑いを浮かべた。 胸に手を置いてため息をつき脱力するその姿には、約束を破られたことへの怒りもいら立ちも全くなく、ただただ純粋に春に会えて安堵しているのが如実に表れていた。 そう、紫音は心配してくれていたのだ。2日も続けて家に来るくらい、心配してくれていたんだ。 「紫音…。ほんとごめん…」 春は鼻がツーンとして、涙が出てきそうになって、それ以上言葉が紡げなかった。ありがとうと言いたいのに、強い罪悪感に押しつぶされそうだった。 「いいんですよ。それより、ハル先輩何かあったんじゃないですか?すごく元気がないし、さっきも教室でぼーっとしてたし。なんか痩せた様な気もする。何か心配事があるなら、俺に話してください」 紫音は迷いなくじっと春を見つめた。 春は一瞬だけすがりつきたくなった。 紫音が助けてくれる。紫音ならどうにかしてくれる。 そんなあり得ない事を一瞬でも春に思わせるほど、紫音の眼差しは頼もしかった。 けれど―――――。 「何もないよ。ちょっと疲れてるだけ」 「本当ですか?」 「うん。今日はちょっと寝不足なんだ」 「でも、今日だけじゃなくて、最近ずっと…」 「そんなことないって」 間髪いれずに否定すると、紫音は春の笑顔の裏を探るような視線を向けた。春は、表情を崩さないよう細心の注意を払う。 「土日はどこに…?」 紫音は追及するのをためらっている様だが、まだ探りを入れることはやめない。 春は思った。きっと自分はあまりうまく笑えていないのだろうと。 いけない。このままでは――――。 春は無意識に詰めていた息を無理やり吐き出すと、もう一度気持ちを切り替えて笑みをつくった。そして、以前の自分に戻ったつもりになって声を出す。 「家族旅行だよ。俺、バカだよな。忘れてお前と約束しちゃうなんて」 「なーんだ、そうだったんすね!あー、よかった。俺、何でかハル先輩がいなくなっちゃう様な気がして。でも、ちゃんとハル先輩はいて、いつもみたいに笑ってて、本当安心しました!」 紫音の目から疑いの色も憂いも消えていた。 試合を見に行けないとわかってすぐに言い訳を考えておいてよかった。春は心底ほっとして、自分に言い聞かせる様に言った。 「俺は、大丈夫だよ」 大丈夫じゃなきゃいけない。誰かに頼ったりしたら、今度はその誰かもあいつのターゲットになってしまうのだから。 紫音は、ただ春が元気で、何事もなくここにいるというそれだけで嬉しそうにニコニコ笑っている。 こんな、太陽みたいな紫音が自分のせいで苦しむなんて、そんなの絶対にあってらならない。絶対に。 「あ、そうだ!ハル先輩、新しい番号とアドレス教えてくださいよ!」 紫音がごそごそとポケットから携帯を取り出して相変わらずニコニコしながら春を見やった。 そんな紫音にまた嘘をつかなければならない事が辛い。 「ごめん、新しいのまだ買ってないんだ」 「そうなんですか。買ったら一番に俺に教えてくださいね!」 紫音が笑顔でそう言った後にちょうど予鈴が鳴った。 「げ。次体育だった!やばい行かなきゃ!ハル先輩、部活も見に来て下さいね!」 紫音は慌てて駆け出した。 これから着替えをして、果たして授業に間に合うのだろうか。少し心配だが、紫音ならどっちにしろ上手くやるだろう。それに、無鉄砲で少し抜けている所が紫音らしくて微笑ましく、春は自然と頬が緩んだ。 猛ダッシュの紫音の姿は、すぐに見えなくなった。 俺はもう、こうして紫音の背中を見送る事しかできないんだろうな。 春の頭を去来したその言葉は、悲しかった。 ほんの少し前まで、自分の未来は輝いていた。 バスケができなくなる日が来るなんて思ってもいなかった。 自分の手には常にバスケットボールがあって、自分の隣には常に紫音がいると思っていた。それが当然で、当たり前の事だと思っていた。 『ずっと一緒にいたいです』 文化祭の日、真面目な顔してそう言った紫音の言葉を思い出す。 紫音の存在は、春が自覚していた以上に大きかった。 失ってから初めて気づく。 当たり前がどれだけ愛おしく、大切だったのか………。 春はよろよろと自分の席に戻って、机に突っ伏した。 紫音に心配をかけまいと気を張ってとても疲れていたし、何より心が苦しかった。 ふいに上半身を預けてた机が細かく振動した。 そのとたん春はぎくりと凍りつき、ぎくしゃくとした動きながら慌てて机の横にかけていた鞄を探った。 手探りで冷たいプラスチックを探し当てた時には、もう振動は止まっていた。 急いで携帯を開き表示されているアイコンを見て、春はほっと胸を撫で下ろした。電話ではなくメールの着信だったからだ。 この携帯は向田に与えられたもので、「ご主人様」からの電話にはすぐに応答するようにと言われている。 だから不本意でも肌身離さず持ち歩いているが、この携帯の番号を誰かに教えるつもりはない。 あいつから与えられた物を積極的に使う気持ちにはとてもなれないし、それにわざわざ既存の携帯を壊して「専用」とまで言って渡されたものだ。その意図は明らかだろう。向田以外の名前が登録されているのが見つかったら、どんな難癖をつけられるかわかったものではない。 これまで向田からのメールは入ったことがない。 いつもの、携帯会社からのインフォメーションか何かだろうと思い、春は軽い気持ちでメールを開いた。心の準備なんて、全くせずに。  From: 孝市さん  今晩もたっぷり可愛がって  あげるからね。 たった2行の言葉だが、春を再び凍りつかせ、その心を打ちのめすには十分だった。 唐突に吐き気が込み上げ、春は走って教室を出た。 丁度次の授業を担当する教師と鉢合わせて咎められたが、春の真っ青な顔色を見ると道を空けてくれた。 * 「今日のメール、感じた?」 背後から春を苛んでいる向田が楽しそうに言う。 息も絶え絶えの春には、力なくいやいやと首を振るのが精一杯だ。 「嘘だ。ここに、こうして、おちんちん入れられるの想像して、エッチな気分になっただろう?」 上機嫌の向田は言葉に合わせて腰を振って、その度に反応よく小さな嬌声を上げる春をクスクスと嘲笑う。 「ほらちゃんと立ってて」 浴室で立ったまま犯されている春の今にも崩れそうな腰を向田が抱えなおした。 「こっちはびんびんなのにね。あのメールで、学校でもこんな風にしちゃたんだろう。いけない子だ」 向田が春の勃ちあがった前をからかうように弾く。 「ち…が…っ!」 「春は恥ずかしがり屋だなぁ。俺は会社で勃っちゃってね。全然治まらないから、メールを送った後抜いたんだよ。昨日とその前はずっと一緒だったから、朝も昼も催しちゃって大変だったよ」 その分もたくさん可愛がってあげないとね…向田がぞっとする言葉を春の耳元で囁いた。

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