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捕縛 26
悪夢を見た。最近よく見る夢だ。
得体の知れない何かに追われ、走っても走ってもすぐに追いつかれる。
捕まれば、目の前でぽっかり開く奈落の底に引きずり込まれる。落ちたら最後、二度と戻っては来られない漆黒の闇の中へ。
夢から覚めて飛び起きて、乱れた呼吸を整えた。
「夢でよかった」と思えるのはほんの束の間で、すぐに現実も悪夢のようなものだと気づき、落胆する。
いいや、夢よりもひどいのかもしれない。
夢の中ではまだ捕まってはいない。でも、現実は――――。
喉の渇きを覚えた春はベッドから下りるとキッチンで水を飲んだ。
ふと視線を下げると、床にざらついた汚れがあるのを見つけた。
牛乳か何かをこぼして、渇いた後のような。
なんだろう、と暫くぼんやり考えていた春は、それが何かを思いだした瞬間に頭がくらくらするほど強い嫌悪感を覚えた。
春は目の前のキッチンペーパーをちぎって濡らすと、屈み込んで乱暴に拭き取った。
汚れているのは、キッチンだけではなかった。
リビングにも、ダイニングにも、脱衣所にも、玄関も。唯一、両親の寝室だけは汚れていないことが救いだ。
それらの全てを拭き取り、最後に自分の部屋のベッドのシーツを換えた。
目が覚めたのは空が白み始めた頃だったのに、洗ったシーツを干し終えた頃にはもう7時を過ぎていた。
顔を洗い制服に袖を通すと、机の引き出しに隠しておいた入学願書を取り出した。
昨日の内に、保護者が書く欄も含めてすべて記入してある。
出願先は千葉県にある潮陽高校だ。成績優秀な春に、勧誘がきていたうちのひとつ。
推薦入学――というよりも特待生枠での入学になるので、試験は必要ない。
スポーツには特に力を入れていないが学力偏差値は高く、他の高校にはない専門的な授業を行っている事で近年密かな人気の出てきている私立高校だ。
書き洩らしがないか再度確認して、丁寧に封をした。
これが、あいつからの逃げ道になるだろうか……。
春は静かに目を閉じてそうなることを祈った。
祈ることしか、できないのだ。
*
*
*
何の解決策も対抗策も見つからないまま、ついに引っ越しの日がやって来てしまった。
春がようやく前日に纏めた荷物は驚く程少なかった。
教科書や鞄など学校に必要な物と、制服と、よく着る服に下着類に変装道具。
ただそれだけだったので、段ボールは2つにしかならなかった。
この家の契約者は父だ。父が家賃を払い続けている以上、この場所は残る。
自分の愛着のあるもの―――写真や、思い出の品などは、ここに置いていきたかった。
それまで持ち出したら、本当に二度とここへは戻ってこられない様な気がしたからだ。
引っ越しのために朝からやってきた向田は、荷物を見て「業者必要なかったね」と笑った。
そして車に乗せられ、見馴れた景色を通り抜け、知らない街にやってきて、高級そうなマンションの前で止まった。
「ここだよ」
向田に促され、春は車を降りた。
見上げた高層マンションは、春には巨大な檻にしか見えなかった。
逃げ出したい――――。
「春。何してる」
手を引いても歩き出さない春に、向田が厳しい声色で問う。
それでも春の足は動かない。
「行くぞ」
向田がもう一度春の手を強く引いて、ようやく春は歩き出した。
エレベーターに乗っても尚、向田は春の手を強く握って離さなかった。―――たとえ離してもらえたとしても、春には逃げ出すことなんてできやしないのに。
無機質なドアを抜けて部屋に入ってから、ようやく向田は春の手を離した。
「ついておいで」
向田が玄関ホールの先のドアを開ける。
部屋の中は春が思っていたよりもこじんまりとしていた。
リビングとダイニングそしてキッチンがひとつなぎに配置されていて、キッチンの隣とリビングの隣に仕切戸があった。部屋の大きさとしては、単身か、2人暮らし用といった雰囲気だ。
春が何よりも驚いたのは、そのLDKには家具も家電も何も置かれていなかったことだ。
春は向田の家に連れて行かれるものだとばかり思っていたから、これは嬉しい誤算だった。
だが、それを素直に喜んでいられるほど、事態が好転した訳ではない事はすぐに思い知らされることになった。
「こっちが肝心の寝室だよ」
向田がリビングの奥の仕切戸をあけると、見たこともないくらい大きなベッドが部屋のど真ん中に鎮座していた。
その大きさだけでもかなりの存在感と圧迫感があるのに、加えて悪趣味な真っ赤なシーツまで敷かれてある。
「俺たちの愛の巣にぴったりだろう?」
立ちすくむ春に向田が後ろから抱きついて耳許で囁いた。
その直後、後方で何かを落とした様な音がした。
驚いて振り返ると、リビングの床に段ボールが転がっていて、引っ越し業者の男が慌てて拾い上げた。
「あの、こちらはどこに……」
「もういいからその辺に置いてさっさと帰れ」
向田が低い声で威圧的にそう言い放つと、男はそそくさと退散した。
玄関の扉が閉まる音を確認してからこちらに向き直った向田は、先ほどの態度からは一転にやりと笑っていた。そして流れるような動作で春を悪趣味なベッドに押し倒した。
「ここも防音はしっかりしてるから、いっぱい啼いていいからね」
向田はそう言いながら春の上着のボタンを外し、胸元に顔を埋めた。
「ここは会社から近いんだ。夜はいつもより早く来られるし、昼休みに抜け出してくることもできる」
春の乳首を食みながら、向田は嬉しそうに言った。そして春の身体を我が物顔で蹂躙し始める。
あぁ、今日から俺はここで犯されるのか。
犯される為だけの様な家に帰ってきて、犯される為だけにあるようなベッドで眠らなければならないのか。
春は心のどこかが凍ってしまったかの様に淡々と思った。
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