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捕縛 29

それは、クリスマスイブの日に起こった。 冬休みの講習が開始されるその日の朝、春はベッドから身体を起こした途端目眩を起こし、再びベッドに倒れこんだ。 このマンションに体温計なんて気の利いたものはある筈がないので、何℃あるのかはわからないが、かなりの高熱があるようだった。 風邪の症状はなかったので、この2ヶ月の疲れやストレスが一気に体調に現れたのだろう。 こんな悪趣味なベッドで寝ていたくはなかったが、春を苛む場所もここだが、休める居場所も皮肉なことに今はここだけしかない為、仕方がなかった。 身体が鉛の様に重くて、割れるように頭が痛い。 熱のある時は、いつも母が食べやすいゼリーや果物を買ってきてくれて、食事の時は薄味のお粥を作ってくれた。 普段から優しい母が、殊更優しくなって、額に冷たい手を当ててくれたり、氷枕を作ってくれたり。体調が悪い時は特に感じていた。俺は愛されているのだなと。 今の俺の傍には、そうしてくれる存在は誰もいない。 俺を愛し、慈しんで、手をかけてくれる人は、誰も。 体調が悪いときは心まで弱くなるものなのか、普段は諦めていることまでも無性に悲しくなり寂しさが募る。 父さんの大きくて暖かな手が、母さんの優しくて軟らかい手が、ただただひたすらに恋しい。 そして、次に脳裏に浮かんだのは、紫音の力強い腕と、優しい鼓動。 父さん 母さん 紫音 俺の大切なものは、皆この手の平からすり抜けて、見えなくなってしまった……。 *** 「…春、起きなさい」 誰かが身体を揺すっている。 何か、物凄く例えようのない位に悲しい夢を見ていた気がする。 夢? あぁ、そうか。あれは夢だったのか。 悲しくて悲しくて、胸が潰れそうだったけれど、あれは全部夢だったんだ。 うっすらと瞼を開くと天井が目に入った。白い何の変鉄もない天井。 けれど、天井に埋め込まれたいくつかの照明が、自分の部屋じゃない事を示していて――。 「今日は随分ゆっくりと寝てるんだな」 視界に入ったその顔を見て、身体と心が一瞬にして凍りついた。 夢じゃ、ない。 「春。何で俺がこんな時間からここに来たか、分かる?」 「春?」 「寝ぼけてるのか?これ以上俺を怒らせないで欲しいな。俺は今物凄く怒ってるんだよ」 不穏な向田の言葉にビクッと震えて視線を向けた。 「今日、春の担任の先生から会社に電話が来たよ。椎名宛だったから、俺が保護者として出たんだけど、千葉の潮陽高校に行くって、どういうこと?」 何で?何で電話が行くんだ?書類は不備がないように何度も何度も確認したのに、何で…。 「親元を離れるから、身元引き受け人の書類が要るのを、忘れていたらしいよ。春はもう学校に来ないだろうと思って、慌てて電話したって言ってたよ」 向田が春の心を読んだみたいに無表情で答えた。 その無表情の裏には怒りが燃えたぎっているのだろう。 怖い。 怖い…。 「俺は拓弥から、星陵に行かせてやってとお願いされてたんだけど、どうなってるんだ?答えなさい」 春は震え出しそうになる声を抑えて、これまでに考えていた言い訳を話した。 「…星陵は、偏差値があまり高くない。向田製薬の跡取りには、相応しくないと思ったんだ」 なんとか最後まで言い切ると、向田が面白そうに笑った。 「ほう。それはいい心がけだな。玉入れ遊びは?もうやめるのか?」 「…バスケは…もうしない」 「それはよかった。春にはあんな野蛮な接触スポーツして欲しくなかったんだ。例えスポーツでも、他の男に触らせるなんて許せないからね」 向田の手が頬に伸びてきて、指先で撫で回す。 「それに。ちゃんと俺との将来の事を考えてくれてたのか。春も、ようやく俺と一生添い遂げる覚悟ができたんだね。感心だ」 向田は顔は笑っているが、どこか無感動な調子で言った。 春は固唾を飲んで向田の言葉を待った。 言い訳がちゃんと通用したのか、それが知りたい。父さんの守りたいものを脅かしたくない。 「でもね…。先生言ってたよ。東京の進学校からもいくつもスカウトがあったのに、わざわざ潮陽を選んだのには、何か訳があるんですか?って。……逃げようとしたな、春」 春は背筋を凍りつかせた。

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