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鳥籠 5
教室では、同じ中学の顔見知り同士でそれぞれ固まっていたが、一人も顔見知りのいない春は、自分の席に座って体育館同様俯いていた。
春に今後、新たな友人を作る気はなかった。
大切な存在を作っても、もう誰にも自分の本当の事は話せないし、何よりその相手が向田に何かされるのではと思うと、とても自分に近づけたいとは思えなかった。
「なあ、あれって脱色かな?」
「え、不良?こわー」
「でも、不良ってよりオタクっぽくね?」
「ほんと。暗そー」
春が噛みついてくるタイプではないと見極めたクラスメイト数名が、本人に聞こえても構わない様な声量でクスクス笑っている。
オタクか…。
これまで小中と学校の人気者だった春が、貼られたことなどあるはずもないそのレッテル。
でも、今の自分の本性よりは、全然マシだ。
俺は、男によがり狂わされる、汚れきった淫乱なのだから…。
いっそこの学校では暗いオタクと思われて過ごそう。
そうすれば自分に近づく者も自然といなくなるだろう。
俺には、あの男以外の居場所があるだけでいい。
それ以外は、何も望まない。
そんな決意を秘めた春を、 嘲笑するでも噂するでもなく、まるで値踏みするかの様に目を細めて見つめるひとつの視線があることに、春は気付いていなかった。
***
教室に担任となる教師が入ってきて、入学を祝う言葉の後、この学校のカリキュラムの説明などが始まった。
名前順で、窓側の1番前が春の席だった。他のクラスメイトからは自分の後ろ姿しか見えないので、顔を見られたくない春にとっては好都合だった。
担任が時間割のプリントを廊下側から配り始めると、時間割を手にした生徒たちがあーだこーだと前後左右で話始め、かなり教室内はざわついている。
教師からプリントを受け取った春は、1枚自分の分を取って、残りを後ろに回そうとした。
あまり後ろを見ないようにして渡した為か、後ろの席の生徒の手と手がぶつかり、プリントが床に散らばった。
「ごめん!」
咄嗟のことで、顔を隠すことも忘れてその生徒を見て言った。
急いでプリントを拾い上げ、渡す。
「ありがとう。あ、ねぇ!」
すぐに前に向き直って自分の席に着いた春を、後ろの生徒が呼び掛けた。
「名前、なんてーの?俺は望月斗士(とうじ)」
俯いたまま振り返った春に、明るい声色が届く。
「しい…向田春」
言い慣れない、そして声に出したくもないフルネームを口にした。
暗いオタクをわざわざ演じようとするまでもなく声が固くなった。
この学校の入学申請書等は全て「椎名春」で提出した筈なのに、座席表やクラス分け表などの自分の名前は、全て「向田春」と書かれていた。
おそらくあの男にバレた時に、訂正されてしまったのだろう。
戸籍の名前が向田になってしまっているのは変えようのない事実なので、この学校では向田としてやっていくしかないのだ。
「春って呼んでいい?俺の事は斗士って呼んで?」
向田と呼ばれるよりいい。そう思って、春は小さく頷いて今度こそ前を向いた。
斗士の顔には、人のいい笑顔が張り付いていたが、その目は笑っていない。
春が前を向いた途端、その目は眇められ、反対に口元の笑みは深くなった。
「この子に決ーめた」
斗士の小さな呟きは、教室のざわつきに掻き消され、春の耳には届かなかった。
***
ホームルームが終わると、今日は授業もないので、学校は終わりとなる。
あの男は、まだ残っているのかな…。
まさか、今日も一日休むつもりなのだろうか…。
春が悶々と考え込みながら帰り支度をしていると、さっき斗士と名乗った後ろの席のクラスメイトが、机の前に回って話しかけてきた。
「春は家どの辺?一緒に帰らない?」
ちらりと斗士に視線を向けると、ニコニコと人の良さそうな笑顔でこちらを見下ろしていた。
随分と人懐っこい人物だ。こんな暗い自分にわざわざ話しかけてくるなんて…。
でも、一緒に帰るなんて、冗談じゃない。あの男にその姿を見られたら、何と言われて、どんな目に合わされるかわからない。
昨日も一睡もしていないのに、今日も酷くされたら…考えただけでゾッとした。
「ごめん。俺は一人で帰る」
目も合わせず、そっけなくそれだけ言って鞄を掴んで教室を出た。
生徒玄関を出ると、我が子を待つ何組か両親達の間に混じる向田を見つけた。
見つけたくなどなかったが、長身の向田は集団の中でも一際目立つのだ。
対する向田も、目立つ特徴を持つ春をすぐに見つけて、微笑みながら近づいてきた。
「さあ、帰ろうか」
さりげなく肩に手を回され、駐車場まで歩く。
「知らなかったよ。ここ、男子校なんだね」
「……」
「危険だな。春を狼の群れに放り投げてる様なもんだ。変な虫は寄り付かなかった?」
危険?一番危ないのは、あんただ。
一番寄り付いて欲しくない虫はお前だ。
心の中だけで悪態をついていると、向田の肩を掴む手に力がこもり、どうなの?と更に聞かれる。
「…そんなの、いない。皆俺を根暗のオタクだと思ってる」
「そう。見る目のないガキばかりだ。でも、春の今日の態度はよかったよ。これからも、ああやって俯いて過ごしてなさい。オスガキ共にその綺麗な顔を見られたくない」
向田に命じられてするのは嫌だが、元よりそのつもりだ。
黙って頷くと、髪の毛を梳くように頭を撫でられた。
肩の手もそうだが、その仕草はとても父親のやる触り方ではない。
車に乗り込むと、到着時同様唇を重ねられた。向田の車はフルスモークで、外から中の様子は見えないが、こんな真っ昼間、たくさんの父母と生徒のいる駐車場でそんなことをされるのは堪らなく嫌だった。
春が生徒玄関を出て車に乗り込むまでをずっと眺めていた生徒がいる。
斗士だ。
面白い物を見たな、と口元に妖しい笑みを浮かべて、車が走り去るのを見守った。
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