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鳥籠 7
春が潮陽高校に入学してから1ヶ月が経った。
春は相変わらずクラスメイトと接触を持とうとはせず、話しかけられても目線を落としたまま必要最低限の返事しかしなかった。
そうしている内に、大抵の者が話しかける事を諦め、離れていく。
ただ一人、斗士だけはどれだけそっけなくしても、まるで気にしていない風に毎日の様に声をかけてきた。
斗士はクラスのリーダー的存在で誰とでも仲が良く、クラスにあまり馴染んでいない春以外の生徒にもよく声をかけていたので、きっとそういうのを放っておけないタイプなのだろうと思った。
春は学校では、授業中以外の休み時間も、朝授業が始まるまでの空き時間も、いつでも小難しい参考書を開いてペンを動かしていた。
放課後も18時近くまで学校に残って勉強している。
その理由は2つあった。
向田の借りたあのマンションは、前いたマンション同様高級マンションで、前と同じ様に家具も、机も、テレビもない。目的はそれだけと言わんばかりに巨大なベッドだけが寝室に置かれていて、やはり悪趣味な色のシーツが敷かれている。
向田はどれだけ金が有り余っているのか、シーツが汚れる度にその汚れたシーツをゴミに出して、たくさん買い置きしてある予備のシーツを敷き直した。
そのどれもがドギツい赤や紫やピンクの、つるんと光沢のあるタイプで、春はそれを見ているだけで嫌な事を連想してため息が出るようだった。
お金は充分にあるので、睡眠を取るためにもうひとつベッドかソファを買おうかとも考えたが、向田にあの通帳のことを知られてしまうと確実に取り上げられてしまう為、何も買えなかった。
自分がどんな目に合おうと逃げ出す気など毛頭ないが、あれは父からもらった愛情というお守りの様な物だと思っているので、手元に置いておきたかったのだ。
頻度は少なくなったとは言え、向田の凌辱の記憶が色濃く残るこのマンションは、設備面だけでなく春にとって居心地のいい場所ではなかった為、春は極力学校に居残るようにしていた。
***
そしてもう1つ。時間を惜しむようにいつもいつも勉強をしているのは、この学校を選んだ言い訳として向田に言った、「跡取りになる為」だった。
この学校に来るまでは、跡取りになる気など、全くなかった。と言うよりも、全てに絶望し、未来の自分の姿などとても描けなかったのだ。
しかし、ここに来て、向田と少しだけ距離が出来たことで、どうしたらこの状況を打開できるのか、前を向いて考えることが少しずつ出来るようになったのだ。
そして出した答えが、跡取りになるというものだった。
何年後になるか分からないが、あの男に成り代わってあの会社の実権を握ることさえできれば、父さんの会社も取り戻せる。
そうすれば全てが解決するのだ。
あの男が簡単に実権を手放す筈はない。それを取る為には、人の何倍も勉強して、会社を任せられる様な人間にならなくてはならない。
だから、ともかくがむしゃらに勉強をした。経営学から、薬学、化学、統計学…。必要と思われるもの全てを学ぼうと思った。
今の春にとって、それだけが自分と両親が救われる唯一の手段であり、生きる為の希望だったのだ。
***
4月20日の自分の誕生日も、向田にお祝いとかご褒美とか言われて、散々異物を受け入れさせられて最悪だったが、5月のゴールデンウィークはもっと最悪だった。
ここ1ヶ月向田が春のマンションを訪れるのは、2、3日に1回のペースだったが、この連休4日間は春のマンションに泊まったのだ。
監禁されていた間でさえ、夜中から昼までは一人の時間があったが、この4日間はずっと向田が側にいて、朝も昼もなく身体を繋げられた。
唯一開放されるのは、夜の外食の時間で、その時に手を繋がれようと腰を引き寄せられようと、もうどうでもよかった。
普段は抵抗しないにしても、人目を気にして羞恥を感じたりしていたが、そんな感情も生じなかった。
それほど、触られていることが当たり前になっていたし、精神的にも疲弊していた。
外食の時間が、この4日間の間で身体の深くまで触れられることのない唯一の時間だった為、心と身体が休息を求めて、完全に気を抜いていたのだ。
連休明け。
ようやく解放された疲れた身体を引き摺って春は休むことなく登校した。
凌辱の記憶が真新しいあのマンションには、1秒たりとも長くいたくなかった。
1年のクラスがある3階まで登ると、掲示板前に人だかりが出来ていた。
小テストの予定でも貼り出されているのだろうか…?
後で人が引けたら見にこようと思い、その人だかりの後ろを通り抜け様とした時、そこに集まっていた生徒達の視線が一斉にこちらに向いた。
人の視線に慣れていた春とはいえ、その異様な光景にぎょっとして、いつも伏せていた顔を上げてその視線を見返した。
春と視線が合った生徒はみな目を逸らし、少しずつ掲示板の中心から人が掃けて、まるで春と掲示板を中心に人だかりに囲まれた様な状態になった。
何か嫌な予感を感じながら恐る恐る掲示板に目を向けた。
そこには、写真が1枚貼ってあった。
隠し撮りの様で、被写体が小さく不鮮明だが、恋人同士の様に寄り添う二人の内一人の特徴は、人違いなど起こるはずもない程珍しいもので―――。
春の背中と心臓は一瞬で凍りついた。その一瞬の後、素早く掲示板に向かって足を進め、写真に手を伸ばそうとした時、横から別の手が伸びてきて、勢いよく写真を剥がした。
「もうホームルーム始まるぞ!皆教室に戻れよ!」
その人物がよく通る声で怒鳴ると、人だかりはサッと捌けていき、そこには春と、もう一人しか残らなかった。
「大丈夫…?」
俯き、微かに震える春に声をかけてきたのは、クラスメイトの斗士だった。
***
「こんな嫌がらせするなんて、最低だよな。たぶんまだそんなに見られてないし、気にするなよ」
春が返事をしないでいると、斗士が春の肩にポンと手を置いて言った。
「…ごめん。ありがとう斗士」
春はまだ動揺を隠せず、すこし上擦った声でそれだけ言った。
「教室いこ?」
斗士に促され、教室に足を向ける。教室に行く途中で斗士が、俺の名前覚えてくれてたんだなーとか、他にも何か話しかけてきたが、頭に入って来なかった。
あれは、俺とあの男の写真だ。
どこかに外食に出たときの。
不鮮明だが、髪の色ははっきり分かった。銀と黒。こんな髪の色、滅多にいない。
手を繋いで肩が触れ合う程寄り添って歩いている所で、まるで仲睦まじいカップルの様だった…。
表情が写っていれば、春の顔は強張っていたので、また違う印象になっただろう。しかし、あの写真は表情が分かるほど鮮明ではなかった。そのせいで、いつも向田に強制される恋人ごっこの形だけが切り取られてしまっていた。
春は教室に入り席に着くと、頭を抱えた。
最悪だ……。
あんな写真見られたら、俺があの男と何をしているのか、きっと知られてしまう。
だらしない顔をいつも必死に隠していたのに、あんなのを見られたら…。
何でこうなる?
何でこんなにも何もかも上手くいかないんだ…。
俺はただ静かにここにいたいだけ。
居場所が欲しいだけなのに……。
その日は授業も全く頭に入って来ず、いつもは必死にやっている勉強も手につかなかった。
周囲から感じる視線の全てが、淫乱な自分を責めて嘲笑している様な気がして居たたまれなくなり、入学して初めて学校を早退した。
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