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鳥籠 12
幸せだ。
春の夜風が頬に涼しく、心地いい。
静かな夜道を、会いたくて会いたくてたまらなかった想い人と並んで歩くのは、それだけで心がぽかぽかするような幸福感を与えたくれた。
同時にハル先輩のいる左半身は、緊張でガチガチだ。
会わない間に免疫が落ちたのと、ハル先輩があまりに綺麗になりすぎたせいだ。
「そう言えば紫音、どうして俺がここにいるって分かったんだ?」
「ハル先輩の同級生に、宮原大地って人がいるんですけど、その人と俺が知り合いで、たまたまハル先輩のこと聞いたんです」
「そっか。よくわかったな」
そうだ。髪の色もそうだが、ハル先輩は苗字も変わっているんだ。
それも気になる。
でも、そんな不躾なこと聞いていいのだろうか。
親の離婚とか、ナイーブな問題かもしれないのに。
今はまだ、聞くべき時ではない気がする。
まだ、ハル先輩は俺に何一つ真実を話してくれていない。
きっと、俺が頼りないから。
これからもっと俺が頼れる男になって、ハル先輩とも定期的に会って、ハル先輩が少しずつ自分の事を明かしてくれたその時に分かればいい。
それにしても名字があの男と同じ「向田」なのは気になる…。
そして、写真のことも…。
写真の事を思い出すと、自分の胸の中にどす黒い感情が沸き上がってくるので、なるべく考えないようにした。
今は、ハル先輩が与えてくれる幸せで暖かい感情を、少しでも感じていたい。
「ハル先輩は、まだ携帯持たないんですか?」
「うん。…もう、買う気ないんだ」
「え!どうして!俺、ハル先輩と連絡取りたい」
「あー…。あのな、紫音…」
「あ、そうだ!宮原先輩通せば連絡取れますよね!宮原先輩には悪いけど、メッセンジャーになってもらいましょう!」
我ながら名案だ。宮原先輩は親切だ。きっと嫌な顔はしないはず。
名案でしょ?とハル先輩を見ると、ハル先輩は今日見た中でも一際表情を曇らせていた。
何か嫌なことを思い出したのだろうか…。
「俺、ハル先輩が悩みを打ち明けられるくらい、頼れる男になります。だから、その時はきっと話してください。ハル先輩が話す気持ちになれるまで、俺はいつまでだって待ちますから」
紫音は春をまっすぐ見つめて、言った。
伝わるだろうか。
俺の真剣な気持ちが。そして、ハル先輩を心から案じているということが。
春は相変わらず沈痛な表情を浮かべて、口を開こうとしては閉じて、を数回繰り返して、か細い声でようやく言った。
「紫音ありがとう。……でも、もう、お前は俺に関わるな」
「え…?」
「バスケ辞めちゃった俺のことなんかもう忘れて、紫音は自分の夢のために歩いて行けよ」
「ハル先輩…?」
一体何を言っているんだ…?
何で、そんなこと…。
「俺はさ、いつかテレビで活躍するお前を見れたら、それだけでいい。テレビ越しに、応援するからさ」
ハル先輩が、精一杯作った様な笑顔でこちらを見た。
なんで?
なんで?
「なんでそんなこと…!」
「星陵に入るんだろ?プロになるんだろ?こんな遠くにいる俺なんかにかまけてる暇ないぞ。お前はきっとプロになれるよ。それだけの力と可能性がある。だから、余所見しないで、精一杯バスケしろよ」
春は一気に捲し立てた。
ちょうど、駅に着いていた。
「がんばれよ」
春は笑って見せると、トンと紫音の肩を拳で軽く叩いた。昔、試合前によくやっていたように。
そして、くるりと背中を見せて、元来た道を歩き出した。
紫音は余りのショックに、暫し呆然と春の背中を見ていたが、その背中が小さくなって、見えなくなりそうになると、勢いよく駆け出した。
もう、絶対に離さない。そう決めたのだ。何を言われても、俺はハル先輩から離れない!
全力で走った為、すぐに頼りなく震える背中に追い付いた。
春の腕を引いて、こちらを振り向かせると、自分の胸に押し付ける様に強く抱き締めた。
「…紫音…っ」
振り向いた時に一瞬見えたハル先輩の顔は、涙に濡れていた。
そして今も、肩がハル先輩の涙で濡れ続けている。
肩がひく、ひくと不規則に上下していて、心が痛くなる。
なぜ俺を引き離そうとしたのだろう。
こんなに悲痛に泣いていたのに。
もしも俺が引き返さなかったら、ハル先輩は一人でこの悲しみを受け止めなければならなかったのか?
そんな思いをしてまで、なぜ…?
一体何が、ハル先輩をこんなにも苦しめているんだ…。
「ハル先輩。俺、もう何があっても、例えハル先輩に拒絶されても、離れないって決めたんです。だから、ハル先輩の言うことは聞きません。俺は、これからもハル先輩に会いに来ます」
ハル先輩は何も言わなかったが、涙は暫く止まらなかった。
その間ずっと、背中を撫でて抱き締め続けた。
***
駅からそう離れていない道端で、ブレザー姿の学生が抱き合っているのだから、人通りのあまりないところとは言え、多少の視線を集めた。
それでも、人目は全く気にならなかった。
こうすることで、ハル先輩が少しでも元気になるのなら、何時間でも、明るい駅の中でさえ出来るだろう。
自分の心も少し落ち着いて来ると、ハル先輩の髪の毛からふわっと香るシャンプーの薫りや、抱き締めた身体の細さ、温かさに意識が向いて、また変にドキドキしてきてしまう。
紫音の変な気分を感じた…訳ではないが、春が紫音の肩に手を置いて少し身体を離すと、顔を上げて泣いて赤くなった目を紫音に向けた。
やばい。キスしたい…。
紫音は沸き上がる衝動を必死に抑えて、春を見つめ返した。
長い抱擁に…といっても1分くらいだが、少し照れた様な表情を浮かべて、春の身体が完全に離れた。1歩分くらい距離が空いて、少し心許なくなる。
「紫音、ごめんな。制服汚しちまった」
春は照れからか、目線を少し横の方に逸らしながら言った。
「そんなのは全然いいんです!もっと汚してもいいです!」
紫音が言うと、春が目線を寄越してクスクスと笑った。今日初めて見る、以前の春の顔だった。
やっぱりハル先輩は、憂いた表情よりも、笑顔の方が断然似合う。
嘘偽りも、取り繕うこともない本来のハル先輩の姿は、本当に美しい。
***
「紫音、俺…。まだどうしたらいいか自分でも分からないけど、……嬉しかった」
春が柔らかな微笑みを浮かべて紫音を真っ直ぐ見た。
紫音は心の奥底からの安堵と、喜びを感じた。
よかった。
俺は間に合った。
初めて間に合ったんだ。
それから、また会いに来ますからねと何度も何度も確認した。
ハル先輩は、微笑んだまま確かに頷いた。
「でも、平日はもう来るなよ。今日、部活休んだんだろ?」
「はい。じゃあ、日曜日に来ます!今週の日曜日!」
ハル先輩は、少し迷うように視線をさ迷わせたが、結局頷いてくれた。
離れがたかった。
そう思っているのはたぶん俺だけじゃなくて、二人で亀の様にゆっくりと駅まで歩いた。
ついに改札の前まで着いて、切符を買った後でも、お互いになかなか別れの言葉が言い出せなかった。
駅の時計の鐘が鳴り、20時を知らせていて、ハル先輩がついに口火を切った。
「もう、乗れよ。こんな時間まで付き合わせて悪かった」
「俺が居たかったんです。…ハル先輩の家は、ここから近いですか?」
「うん、まあまあ。学校の方」
「ちょっと歩きますね。大丈夫ですか?俺、送っていきますか?」
「冗談言うなよ。俺が送った意味ないだろ」
「ですよね…。じゃあ、あんまり遅くならない内に帰って貰いたいし、俺行きます」
ハル先輩が頷いて、じゃあ、と手を振った。
後ろ髪を引かれる思いとはこのことかと実感しながら改札を潜って振り返ると、ハル先輩はまだこっちを見てくれていた。手を振ると、ハル先輩も控え目に返してくれた。
帰りの電車の中では、ずっとハル先輩の事を考えていた。
笑顔を思い出して頬を綻ばせ、泣き顔を思い出しては眉を寄せた。
幸せにしてあげたい。
もうあんな涙は流して欲しくない。
ハル先輩が、心から笑える日が来るまで、何があっても俺が支えになろう。
そう心に固く誓った。
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