72 / 109

鳥籠 18

紫音はこの1週間、ずっと悶々と過ごし、勉強も部活も手に付かなかった。 試合のない週であったことは、幸いだった。エースの紫音がこんな状態の今なら確実に負けてしまうだろう。 「おい、どうした紫音。椎名先輩見つかったってのに、またお前のそんな姿見るなんてな」 建志にそう言われた。 せっかくハル先輩といられる様になったのに、俺だってこんな気持ちになりたくない。 でも、春は既に他の男に奪われてしまっていたのだ。 失恋だ。大失恋。 でも、気持ちは冷める所か諦める所か黒い炎で燃え上がった。 春を傷つけるかもしれないとか、裏切りになるとか、そんなことはもうどうでもいいとすら思った。 それよりも、強い独占欲と嫉妬心に突き動かされた。 ハル先輩にどう思われてもいい。俺のこの思いを遂げたい。 凶暴なまでの思いが膨れて、今にも破裂しそうだ。 自分がこんな風に豹変するなんて、知らなかった。知らなかったし、そんな自分を嫌悪すらするけれど、歯止めは効きそうになかった。 *** 日曜日。 いつもの電車に乗り、いつもの駅で降りた。 いつもと違うのは、ボールがないことと、紫音の気持ちだけだ。 「紫音」 春がいつもと同じ嬉しそうな笑顔で紫音を迎えた。 一瞬心が絆されそうになるが、すぐにあの写真が脳裏を過る。 「ハル先輩、お腹減りました?」 「ん?いや、まだ大丈夫だよ」 「そうですか。じゃあ、俺、今日行きたい所があるので、付き合って貰えますか?」 「いいよ」 春は当然何の疑いもなく着いてきた。 どこに行くんだ?と綺麗な目を向けて聞いてきたが、はぐらかして目的地に進んだ。 もう迷いはない。 昼間の人の波に逆らって、飲み屋が立ち並ぶ通りに出て、更にその奥へと入った。 ギラギラとした装飾に、電工掲示板の文字が点滅するそこは、ホテル街だ。 「なぁ紫音?ここ、なんか…」 春はキョロキョロと辺りを見渡して、戸惑っている様だが、まさか自分がそこに連れ込まれるとは思っていないだろう。 「ここにしますか」 紫音は、休憩3時間3980円という文字が掲示板を流れるホテルを指した。 「ここにって…。は?」 紫音が指差した建物を見上げて、明らかなその外観に春が疑問の声を上げた。 まだわからないのか。本当に鈍感な人だ。 呆ける春の腕を引いて、迷いなくその建物に入った。 薄暗い中で光るパネルの中から適当な部屋を選んで、エレベーターに乗り込んだ。 当然紫音もこんな所に入るのは初めてだが、春に抵抗される前に部屋まで辿り着きたくて必死だった。 春がしきりに、おいとか待てよとか言うのを綺麗に無視して、エレベーターが開いてすぐ、目の前にあった部屋番号が点滅している部屋に入った。 ガチャッと扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。 *** 「紫音…なに、これ…」 春はさすがに警戒するように身体を竦ませて聞いてきた。 「ハル先輩、こっち」 紫音は春の手をとって、部屋の奧に進む。 春は、足をもつれさせながらも手を振りほどかず着いてきた。 すぐに目に入った大きなベッドにドサッと春を突き飛ばして、自分もベッドに乗り上がった。 春は信じられないと驚愕の眼差しを向けてきたが、何も言わずに覆い被さって、驚きに少し開いている唇に口づけをしながら春の身体を押し倒した。 思っていた以上に柔らかな唇の感触に、一気に劣情を掻き立てられ、すぐに唇を割って舌を差し入れる。 甘い。 そう思った。奥の方で縮こまっていた舌を探り当てて絡めると、絡まった所から溶けてしまいそうな程気持ちよくて、夢中で吸い付いた。 「ふ…ん、んん…」 春が苦し気な声を上げた為、一度唇を離す。 ぬらぬらと唾液に光る春の唇を見ていると、またキスがしたくなり、顔を近づけた。その時、春が弾かれたように顔を背けて両手で紫音の肩を押した。 「紫音…なんで…?」 冷たい声で拒絶されるものとばかり思っていたが、春の声はとても悲しそうで一瞬ドキッとする。が、すぐに気を取り直した。 「ずっとずっとハル先輩の事が好きだったのに、他の奴に奪われてたなんて、許せないからです。他の奴に渡すくらいなら…って思っても、仕方ないでしょ?」 「他の奴って…っん…」 背けられた顔がこちらに向いた拍子に紫音の唇が再び春のそれを塞いだ。 テクニックなんて知らない紫音の舌は、ただ春の口の中を掻き回すだけだし、春の舌は逃げるばかりだ。 それでも、長年想い続けた春と口付けをしているという事実だけで、これまでに得たことのない興奮を覚えて、夢中で唇を押し付けた。 暫くすると、ふと頬に冷たい何かが触れるのに気づいた。 これは…。 ゆっくり唇を離すと、春の綺麗な翡翠色の瞳が滲んでいて、次から次に透明な雫が零れていた。 その姿を見た途端、まるで憑き物が取れたみたいに紫音は我に返った。 俺は一体何をした…。 ハル先輩を絶対に裏切らない、傷つけないと心に決めていた筈なのに、ハル先輩をこんな風に泣かせるなんて…!

ともだちにシェアしよう!