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鳥籠 20

ホテルを出た後は、喫茶店で軽食を取ったり、街をぶらついていつもの様に過ごした。 紫音はとても幸せそうで、今日会った初めの頃に比べるとまさしく別人の様だった。 嫉妬に狂っていたという紫音は冷たい目をしていて、少し怖かった。が、怖いというより、紫音にそんな目をさせてしまった事が悲しいという感情の方が勝っていた。 紫音には、いつも笑っていて欲しいから。 紫音が自分を好きでいてくれたなんて、思いもよらなかった。 自分のこの気持ちを伝えるつもりはなかったのに、紫音から向けられる眼差しが慈愛に満ちたものに戻った事が嬉しくて、幸せに浸ってしまい、つい本音を漏らしてしまった。 伝えた所で、所詮自分は向田から逃れられないのだから、紫音と生きていくことなんてできないのに…。 この身体を差し出すことで、紫音が少しでも満たされるなら…とキスに応じたが、身体を触られて思い出した。 自分の身体には無数の所有の証が刻まれていることを。 そんな穢れた身体を差し出されても、紫音が喜ぶ筈がない。寧ろ嫌悪するに違いない。 俺には紫音にあげられるものなんて何もなかったのだ。 紫音は向田の事を勘づいていて、嘘でもそれを肯定してやれば、紫音を解放してあげることは容易だった筈なのに、ずるい俺は何も告げられなかった。 紫音を失いたくなかったから。 自分は何一つあげられないのに、紫音からは沢山の物を貰おうとしていて…。 紫音を騙して裏切っている様な物だ。俺は確かに紫音が好きだが、その裏で向田に抱かれ、束縛されることを拒否できないのだから。 紫音の物になりたいとどんなに願っても、それは叶わない。自分のひと欠片も紫音にあげることはできない。 それでも…。幸せそうな紫音の傍らにいるだけで、自分も幸せを感じてしまう。その幸せは、麻薬の様だった。罪悪感を感じながらも、拒絶できるはずなどない。 紫音を騙して得た幸せだけれど、やはり弱い自分はそれを甘んじて受けてしまう。これからだって、紫音から幸せな時間を貰い受け続けてしまうだろう。 紫音。本当にごめん。 俺はお前を幸せにしてあげることなんかできないのに…。 *** 18時になり、いつもの様に紫音を駅まで送った。 紫音が改札を潜る直前に何かを思い出した様に戻ってきた。 「ハル先輩、携帯、今日も持ってます?」 「あ…うん。でもあれは…」 「何か事情があるんですよね?番号を教えて欲しいとは言いませんから、一回携帯貸してください」 春は躊躇したが、紫音は諦めるつもりはないらしく、じっと待たれたので、仕方なくポケットの中の携帯を渡した。 紫音はありがとうございますとそれを受け取り、何か操作をしてから返してきた。 「俺の番号、発信履歴に残しました。何かあったら、早朝でも深夜でも、いつでもいいので連絡してくださいね!」 紫音はニッと笑うと、じゃあまた来週と改札を抜けて行った。 春はマンションに戻ってぼんやり携帯を眺めた。 これまで忌々しいとしか思わなかったそれが、今日は違って見えた。 発信履歴に残るたった1つの番号。 名前も何もない番号だけのそれを指でなぞる。 消した方がいい。 あの男にばれる前に消さなくちゃ。 そう頭ではわかっていたが、どうしても削除ボタンが押せない。 反対側のボタンを押すと、着信履歴が表示される。 そこには「孝市さん」という名前だけがずらっと並んでいて、思わずホーム画面に戻した。 もう一度発信履歴を見て、紫音の番号が表示されると、ほっとした。 電話をかけるつもりはないが、側にいない時でも紫音と繋がっていられる様な気がして、暫くそれを眺めた。 結局、削除は押せなかった。 21時頃にやって来た向田に、いつもの様に性急に身体を求められた。 嫌悪感が普段よりも何倍も強く、同時に紫音を裏切っている罪悪感もあり、珍しく身体が気持ちに引き摺られた様で、1回目のセックスではイけなかった。 向田が訝しみながらしつこくオモチャで春を虐め、ようやくイクと、その後は普段通りの身体になり、何度もイった。 お陰で向田から追求されることはなかったが、やっぱりこの身体は堕ちきっているのだな…と春を落胆させもした。 2回出して満足したらしい向田が、ぐったりする春の髪を撫でながら恐ろしいことを言った。 「春、もうすぐ夏休みだね。夏休みは、東京のマンションに行こうね。あの部屋、春の為にまだ残してあるから。また昼も夜も毎日一緒だよ」 多少予測はしていたものの、現実の物になるのかと思うと、その衝撃は強かった。 約40日もの長い夏休み。またあの3ヶ月の監禁生活のような状態になるのだと思うと、嫌悪感に吐き気が込み上げてくる。 同時に紫音の事を考えた。 夏休みは20日から。それまでに日曜日はあと1回しかやってこない。 あと1回やってくるだけよかった。 また突然消えるみたいなことはしたくない。 紫音に心配はかけたくない。

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