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鳥籠 22

日曜日の12時。 紫音の到着を待つ僅かなこの時間も、春は好きだった。 会ってしまえば、あとはもうあっという間に時間が過ぎて、すぐに別れの時が来てしまう。 まだ会う前のこの時間は、これから起こる事を期待するだけでいい。別れの時を意識しなくていい。だから、胸が高鳴り、心が踊る。 この時間も、春にとっては抱き締めたくなるようなかけがえのないものだ。 「ハル先輩!」 紫音が弾けるような笑顔で改札を潜ってくる。 今日が終われば、暫く紫音には会えなくなる。 だから、紫音をたくさん感じたい。夏休みの間中ずっと、紫音を心に浮かべられるように。 紫音をじっと見つめると、紫音の頬が見る見る間に赤くなり、俯いた。 今になれば分かる。前からよく見せていた紫音のこういう態度は、俺を好きでいてくれたから表れるものだったのだと。 紫音が、俺を好き。 そう感じられるだけで幸せだ。 そして、紫音の恥ずかしそうな表情が可愛くて、愛おしくて堪らない。 紫音が好きだ。 心の底から、好きだ。 心変わりなんて、絶対にしない。 *** 昼食をとった後は、公園に向かうことになった。バスケをするために。 両想いだとわかっても、二人の行動は変わらない。 変わったのは…。 手こそ繋がないものの、二人並んで歩く距離が心なしか近くなった。 会話の途中、見つめ合う時間も、ほんの少し長くなった。 そのほんの少しの変化が、こそばゆくて、心がポッと暖かくなる。 紫音との1on1は初めは接戦でも、すぐに体力が続かなくなって、主導権を取られる。 中3の秋から、ろくな物を食べていないし、運動もしていないのだ。筋肉もスタミナも落ちて当然だ。この身体は、バスケをするための身体ではなくなってしまったから…。 それでも紫音とするバスケは楽しい。 紫音の真剣な表情も、飛び散る汗も、爽やかな笑顔も、全てが輝いている。 もう自分が二度と手に出来ないものだからこそ、それが愛おしい。守りたい。 紫音に自分の夢を託すと言ったのは、本音だ。 紫音が自分の夢を叶えてくれたら、それで充分だ。俺の夢と紫音の夢は同じだから。紫音の夢は、俺の夢。そう思っていた。 夏の強い陽射しの元では、いくら体力がある紫音でもそう長くは動けない。 自然と公園のベンチで休む時間が長くなってくる。 「俺、来週都の決勝戦なんです」 「勝ち上がったんだな!全国に行けば、星陵のスカウトも間違いない」 「はい。それで、ハル先輩。今年の全国の会場は千葉なんです。全国に行けたら、観に来てくれますか?」 紫音の視線が期待に満ちている。 紫音が活躍する試合を見たい。全国で華々しくプレイするその姿を。 でも、夏休みは……。 「紫音…ごめん。俺、夏休みはドイツの両親の所に行くんだ。…だから、紫音の試合は見に行けない。すごく観に行きたいけど…残念だ」 「そう…ですか…。でも、仕方ないですよね。夏休みとかでもないと、ドイツなんて行けないですもんね!」 「うん…」 紫音は疑ってない。よかった。これで心配はかけずに済む。 俺は大切な紫音を騙してばかりだ…。 「…ハル先輩、もしかして、ドイツに行きたくない…とか?」 「…え?」 「いや、なんか、ハル先輩の表情が曇ってる様な気がして…」 「…そんなこと、ないよ」 「そうですよね…。でも、じゃあ他に何か悩みがあるんじゃないですか?」 紫音が顔を覗きこんでくる。 夏休みの自分を想像して笑うことなんてとても出来なかった。 でも、駄目だ。紫音には散々心配かけたんだから、もう心配させちゃいけない。 笑わなきゃ。 「悩みなんて、何もないよ。紫音の仕合が観れないのが、残念なだけ」 精一杯取り繕って言ったが、紫音は納得していないような表情だ。 そして、何か閃いたようにあ!と言った。 「ハル先輩、もう動けます?ちょっと、連れていきたい所があるんです」 *** 紫音に連れられて30分程歩いた。 学校の方角だ。 学校とマンションの往復しかしていない春にとっては初めて通る道だ。 紫音はいつの間にこんな道を覚えたのだろう。 やがて古い民家が建ち並ぶ住宅街に差し掛かると、だんだん潮の香りが強くなってきた。 「あ、ここだ」 紫音が何かを発見したように民家の間の道に入り、ついていくとコンクリートの堤防が見えた。途中で一端途切れて、その部分には下に続く階段が作られている様だ。 紫音がこっちと手招きして、階段を降りて行こうとするので、駆け寄った。 堤防の切れ目からは、雄大な海が見えた。 もう16時なので、太陽は大分西に落ちていたがまだ高い位置にあり、夕日というには早い。 吸い寄せられるように近づくと、紫音が手を取った。 海水浴シーズンだが、古い住宅街の奥にあって店も殆んどなく利便性も悪いこのビーチには、誰もいなかった。 春も紫音の手を握り返した。 手を繋いで、紫音と砂浜を歩く。 太陽を遮るもののない砂浜は、照り返しもあり、思わず海に飛び込みたくなる程に暑かった。 …気づいている。この暑さは太陽のせいだけではないと。 紫音と手を繋いでいるだけで、頭に血が上って、顔が火照るのだ。 繋いだ手に、汗をかいているのではと心配になる。 でも、離したくはない。 *** ビーチの中程まで歩き、海を目の前に並んで座った。 波が寄せては返すザーという音に、心が穏やかになってくるのが分かる。 暫く黙って二人で海を眺めた。 「俺は、まだ頼りないですか?」 紫音がポツリと漏らす。 「え?」 「ハル先輩が、何かを一人で抱えていることは分かります。まだ、俺には話せませんか?」 紫音の真剣な眼差しが注がれる。 その真摯な思いに答えてやりたい。 でも…言えない、 自分の全てがあの男に縛られていることを知られる訳にはいかない。 それに、毎日の様に男に犯されているなんて、恥ずかしくて惨めで穢らわしくて、口が裂けても言えない。 紫音の前では、綺麗な存在でいたいし、まだ嫌われたくない。失いたくない。 「……ごめん」 もう何でもないとは言えなかった。 紫音が頼りない訳でも、信じてない訳でもないこともちゃんと伝えたいのに、上手く言葉が出てこない。 「そうですか…。でも、いつかきっと、話してください。俺は何を聞いても驚かないし、ハル先輩が助けを求めてくれるなら、必ず力になります。だから、いつか話してください」 紫音の真摯な言葉に、泣けてきそうになるのを堪えるのに必死で、何も言えなかった。 少しでも声を漏らしたら、自分の中に溜まった言葉が、堰を切って溢れだしそうだった。 助けて…という言葉が。 紫音は暫く黙って返事を待っていたが、気を取り直したように明るい声色で言った。 「ここ、気持ちいいでしょ?ハル先輩を探しに高校を訪ねた時に見つけたんです。ハル先輩を元気付ける為に連れてこようって決めてました」 紫音が少しだけ誇らしげに言った。 俺は紫音にこんなに大事にされているんだ。 嬉しいのに、幸せなのに、なんて悲しい…。 「ありがとう、紫音…」 失いたくない。紫音の愛を失うのが怖い。終わりがくるのが怖い。 ずっとこのまま、あの太陽が沈まなければいいのに。 そうすれば、紫音とずっとこうしていられるのに。 *** 時間は残酷なくらい淡々と過ぎて、西の空はすっかり赤くなった。 もう、帰らなきゃいけない時間だ。 分かっているのに、身体が動かないし、それを告げる言葉も出ない。 ふいに隣の紫音を見上げると、いつから見られていたのか、視線がぶつかった。 少し恥ずかしくなって俯くと、紫音にハル先輩と呼ばれて顔を上げる。 再び視線が合うと、紫音の端整な顔がゆっくり近づいてきて、そっと唇を掠めた。 軽く触れるだけのそのキスは、春がこれまで経験したどのキスよりも甘く、優しさに溢れるものだった。 紫音の顔が離れて、目と目が合うと紫音がはにかんだ様な顔で笑った。 身体全体が幸福感に包まれたような気持ちになって、春も笑った。 波の音と紫音の微かな笑い声だけが聞こえるこの空間に、いつまでも二人でいられたら、どんなにいいだろう。 「今日は俺が送っていきます」 紫音はそう言って譲らなかった。 マンションの周りを紫音とうろつくなんて、そんな危険な事はできない。 春は何度も断ったが、普段はあまり自分の意見を強く通そうとしない紫音にこれだけは譲らないと押しきられてしまった。 春は内心ヒヤヒヤしながら自宅マンションまで紫音を伴い歩いた。 早く紫音を帰したい。 それなのに、離れたくない。 そんな相反する思いを抱きながらマンションの前に辿り着いた時、時刻は19時近くだった。 「ハル先輩、立派な所に住んでますね」 「うん…。ごめんな、入れられなくて」 「いいんですよ、そんなこと。来週からハル先輩ドイツだから、次に会えるのは9月か…」 「…そうだな」 「寂しいです。でも、9月になれば会えるって思って我慢しなきゃですね」 「俺も、また紫音に会えるの楽しみにしてるから…」 「ハル先輩…。俺、本当に嬉しい。ハル先輩とこうなれて。9月の1週目の日曜日、またいつもの電車で来ますね」 「うん。待ってる。…じゃあ、送ってくれてありがとう」 いつまでもこんな所にいてはいけないと、振り切る様に別れを告げ、春はエントランスを潜った。 40日間があっという間に過ぎます様に。それだけをただ祈った。

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