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鳥籠 28
春の気分は晴れやかだった。
金、土の日程で組まれた宿泊研修を無事…とは到底言えないものの終えて、今日は日曜日だ。
紫音と一緒にいられる日。
金曜日の夜の出来事は、いくらそういう行為に慣れていたとしても春の心に新たな傷を作っていたが、あの時の男達の嘲笑や息遣いは、思い出さない様にしていた。
紫音といると、見える景色がいつもより数段鮮やかになって、所々赤や黄色に色づき始めた紅葉が一層美しく目に写る。
普段は気にも止めない木の葉のざわめきや、枝に止まる小鳥の囀ずりまでも美しい旋律に聞こえて、世界が全てキラキラ輝くのだ。
そんな世界にいる時くらいは、現実を忘れていたい。
春の気分がいつもより格段にいいのは、もう1つ理由があった。
「俺本当に嬉しい」
相変わらず人気のない浜辺で隣に座る紫音を見上げる。
紫音は照れなのか少し複雑な表情をしていたが、嬉しくない筈がない。
もしかしたら、そこに行けなかった俺に遠慮しているのかもしれないが、そんなこと気にせずに、素直に喜んで欲しいと思った。
今の俺にとっては、紫音の喜ぶ顔を、幸せそうな顔を見ることが一番の喜びであり幸せだから。
「や…でも、まだ星陵に行くかどうかは決めてなくて…」
「何言ってんだよ。俺に遠慮してるなら必要ないからな。紫音の夢はきっと叶うよ」
星陵は毎年何人もプロ選手を輩出している。紫音の実力と、星陵のコネクションがあれば、プロ選手という夢を叶えるのは難しくないだろう。
そう言えば――。
夢を語り合ったあの日、紫音は俺とずっと一緒にいたいって言ってくれてたな…。
その時俺は何と答えたんだろう。
たった1年前のことなのに、そのあと色んな事がありすぎて、自分自身も変わりすぎて、あの頃の自分がどう考えていたのかすら思い出せない。
紫音はあの頃から俺を好いてくれていたのかな…。
だとしたら、俺が変わり果てた事を知ったらがっかりするだろうな。
何も知らない、穢れのなかった1年前の自分に嫉妬する。
あの頃の自分にはもう二度と戻れない。
思い出すことすらできないのだから、純粋だった自分を演じることもできない。
今の俺なら、紫音の言葉に迷わずにこう答える。「俺も紫音とずっと一緒にいたい」と。
もしもずっと紫音とこうしていられるのなら、他には何も望まない。
向田からの仕打ちも、耐えられる。
紫音が傍にいてくれれば。
***
「ハル先輩、俺……。いや、なんでもないです!俺、頑張ります!」
紫音は複雑な表情のまま言葉を探していたが、やがて迷いを振り切る様にようやく笑顔を見せた。
星陵からスカウトを受けるなんて、誇らしく名誉なことだ。
1年前の自分も、チームメイトの手前派手にはしゃいだりはしなかったが、誇らしかったし、希望に満ちていた様に思う。
紫音の笑顔を見ていると、あの頃の、翼を持った自分の気持ちを少し思い出した。
紫音も今、同じ気持ちなんだと思うと嬉しい。
「紫音、好きだよ」
自然と言葉が口をついて出た。
紫音の夢が叶うのが、自分のことのように嬉しい。
俺はそれ程紫音が好きなんだ。
「ハル先輩……!俺だって、ハル先輩が好き過ぎて、自分が怖いくらいに大好きです!」
紫音の腕が背中に巻き付いてきて、温かい。
どこまでも真っ直ぐな紫音が本当に好き。
力強い腕も、少し早いけれど穏やかな鼓動も、バスケでかいた汗の匂いも、温かくて優しい唇も、全部好き。
大好き。
紫音の腕の中でもう一度そう呟くと、じわっと幸福感が溢れだした。
***
海からの帰りは、駅に行くよりも春のマンションの方が近いので、いつも紫音が送ってくれた。
向田に見つかったら…と思うとヒヤヒヤしたが、紫音の好意を無碍にできなかったし、最後の最後まで紫音といられることが嬉しくて、断ることはできなかった。
「もう、着いちゃいましたね」
紫音の目が、帰したくないと言っている気がした。
俺もこんな所に帰りたくはない。
永遠にマンションになんか着かなければいいのにと思うのに、紫音といると楽しくて、あっという間に時が過ぎる。
「ハル先輩…いい?」
もう10月のこの時間、辺りは既に薄暗く、人影もなかった。
こくりと頷いて見上げると、紫音の唇がそっと唇を掠めてすぐに離れた。
紫音は相変わらず幸せそうに笑ってくれていて、春も同じくらい満たされた笑みを返した。
「また来週、ですね…」
「うん…」
早く中に入らないと、紫音が帰れないじゃないか。
でも、足がマンションに向いてくれない。
「今日は俺がここで紫音を見送るよ」
「え…でも、」
「紫音の後ろ姿を見送りたい気分なんだ。だから、ほら、行って」
少し強引に言って背中を押すと、戸惑っていた紫音が分かりましたと微笑んで応じてくれた。
紫音の背中が小さくなって、完全に見えなくなるまで見送って、マンションの方角に振り返り、重い足を進めようとしたその時。
駅とは反対側の道から、車がスッと近づいてきて、ヘッドライトの眩しさに目を細めた。
その黒塗りの高級車には、嫌という程見覚えがあって、春の背筋は凍りついた。
マンション前に止められた車の運転席から男が降りてくるのがスローモーションで目に入ってくる。
男は無言で春に近づくと、強い力で腕を引いて乱暴に助手席へと押し込んだ。
そしてすぐに自分も運転席に乗り込むと、車を発進させた。
車内の空気は、向田の無言の怒りで凍りつき、冷たい汗がいく筋も春の背中を伝った。
どうしよう…どうしよう…。
混乱して働かない頭を必死で動かす。
一体いつから見られていたんだろう…。
すっかり気を抜いていた自分が許せない。
ともかく、紫音だけは絶対に守らなければ。
紫音には、自分がどんなことをしてでも手出しはさせない。
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