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鳥籠 29

終止無言のまま東京のマンションに連れ込まれ、寝室に突き飛ばされた。 床に跪いた春の目の前に立った向田に、髪の毛を鷲掴みにされて無理矢理上を向かされた。 「浮気は許さないって言ったよね?」 向田の声はゾッとする程冷たい。 思いっきり引っ張られた髪の毛が引き攣って頭がジンジン痛む。 「あいつにヤらせたのか?」 「そんなこと、してない」 緊張で上擦った声で必死に否定するが、向田はそれを嘲笑って言った。 「あんなに仲睦まじそうにキスしてたのに?春のあんな笑顔、俺は初めて見たよ」 向田の最後の声は怒りで震えていた。 全部、見られていたんだ…。 運動している訳でもないのに、心臓が早鐘の様に煩く鳴って苦しい。 「夫にも見せない顔をあいつに見せるなんて、そんなの許さん!」 髪の毛を引っ張られて無理やり立たされると、ベッドまでそのまま歩かされて放られた。 「身体を点検するから脱ぎなさい」 言う通りにしないと…。 震える指先でシャツのボタンを外そうとするが、思い通りに動かせなくて1つ外すにも時間がかかる。 それを苛立たしげに見下ろしていた向田がちっと舌打ちをして手を伸ばすと、前を力ずくで開かれ、いくつかボタンが飛んだ。小さなボタンが床に跳ねる高い音に、これが現実だと教えられる。 中に着ていたTシャツもビリビリと破かれ、ズボンと下着も簡単に脱がされた。 *** 全裸にさせられた後は、向田が宣言した通りに隅々まで見られた。 触られるでもなく、ただじっくりと骨董品か何かの様に見られた。 最後に後ろの孔に唐突に指を入れられて、でもすぐに抜かれた。 仰向けの春に馬乗りの状態のままの向田が言った。 「痕は付けられてないし、今日はヤってないみたいだな。あいつとはいつからだ?夏休み前からなのはわかってるぞ。夏休みの春がおかしかったのはあいつのせいだったんだろ?あの、青木紫音の…」 紫音だってバレている…! 一度会っただけなのに、なんで…。 「ち、違う!紫音じゃない!」 「春。庇おうとしたって無駄だ。俺ははっきり見たんだぞ。写真だって撮った」 「でも、何もしてない!紫音とは、何も…」 「誤魔化すな!キスしてたじゃないか。あいつは人妻に手を出した間男だ。さあ、どうしてやろうか?」 「待って!本当に何も…キスだけしかしてない!紫音には手を出さないで!お願い…」 紫音だけは守らないと。俺のせいで紫音に危害を加えられたら…そう考えるだけで胸が切り裂かれる様に痛む。 「キスだけ?そんなの信じると思うか?春の身体は俺だけしか知らない清い身体だったのに、あいつにすっかり汚されていたなんて、俺もコケにされたもんだな」 向田の視線は相変わらず冷たい。 どうすれば…どうすればいいんだ…。 「お願い、信じて…。俺が何でもする!何でもしますから、お願いします…!」 「何でも…ねぇ。例えば?」 「……俺の、こと好きにしていいし、何でも言う通りにします」 「今だって好きにしてるよ。そもそも春は全部俺の物なんだから、それは当然のことだろ?」 「…じゃあ、学校も辞めます!ずっとここにいますから!」 「それはいいね。大好きなお勉強ができなくなるけど、いいの?」 「勉強は…ここでもできるから…」 「必要ないよ。春はお勉強が好きみたいだけど、俺が春に望むのはそういうお勉強じゃない」 「なんで…」 「春は何か勘違いしてる様だけど、俺は春を跡取りにするつもりなんてないから。春は俺の妻だ。俺の帰りを待って、素直に身体を委ねていればそれでいい。前にも言っただろ?お勉強するなら、エッチになる為のお勉強をしてって」 *** 頭を重たい何かで殴られたかのような衝撃だった。 跡取りにするつもりはない…? これまで、解放されるための唯一の希望だと思っていたそれが幻想だったなんて…。 じゃあ俺は何を目標に生きればいいの? 他力本願に、この男が俺に飽きるのを待つしかないというのか? 心の安寧だった紫音も奪われ、唯一の希望も奪われた俺は、一体何を糧に生きていけばいいの? ショックで見開いた目から涙腺が崩壊したみたいに止めどなく涙が溢れた。 自分の心の均衡を保っていた2つの柱が一気に失われ、ガラガラと音を立てて崩れていくのを止められない。 あ、壊れる。 そう思った瞬間、脳裏に紫音が過った。 紫音を守らないと。 あと少しで夢に手が届く紫音を、守らないと。 そう決意した途端、涙が止まり、失くしかけた自我が戻ってきて、見開いたまま何も写していなかった視界に向田の顔が映った。 俺が傷ついて壊れそうになっているのが楽しいのか、ニヤニヤと笑っている。 「わかった。もう勉強もしない。学校も行かない。ここで孝市さんの帰りだけを待ってる。それで、紫音に手出ししないって、約束して下さい」 「もっとエッチになってくれるの?」 「…なります。孝市さんに喜んで貰えるようになんでもしますから」 向田の口元が更に歪んで、紫音の感触の残る唇に、冷たいキスをされた。 この感触を紫音の温もりに塗り替えて貰うことはもう二度とない。 *** 「春にもう1つやって貰うことがある」 唇を離した向田がベッドから離れて、春のズボンのポケットを探り携帯を取り出して春に手渡した。 シーツを巻き付けて身体を起こし、渡された携帯を見ると、画面には発信履歴が…紫音の番号が表示されていた。 「どうせあの小僧の番号なんだろ?今すぐ電話しなさい。これ以降あいつが春の周りをうろつく様なことがあれば、春が何をしても絶対に許さないからな。どうすればいいか分かるよな?…そうだな、あいつとは面識もあるし、俺を愛してるからとでも言うんだな」 俺に紫音に別れを告げろと言うのか。 大好きな紫音に、別れを…。 でも、紫音にとっては、何も言わずにいなくなるよりもいいのかもしれない。 もう会うことが叶わないのなら、いっそ俺の事を嫌いになった方がいい。 そうすれば、紫音は俺を忘れられるし、いずれまた他の誰かに恋をして――。 止まっていた筈の涙が一筋流れた。哀しみの涙が。 紫音に忘れられる。そして他の誰かに、俺に見せたような笑顔を、優しさを見せる様になるのだと思うと、辛くて仕方がない。 でも…仕方のないことだ。 紫音とはいつか絶対に別れなければならない運命だったのだから。 ずっとこのまま…そう思ったこともあったが、それは俺の希望が見せた錯覚だ。 それがわかっていながら、どんどん紫音を好きになっていく自分を止められなかった。 これ程までに紫音に依存してしまったのは自分の責任だ。 だからせめて…。 せめて紫音が、俺と同じ悲しみを背負わない様にしてやりたい。 恨まれたっていい。嫌われたっていい。 紫音にこの虚しくて哀しくて、心臓を抉られる様な喪失感を与えたくない。 涙を拭って、これまで幾度となく自分を支えてくれた番号を見つめた。 紫音、ありがとう。 これまでも、これからも、俺は紫音だけが好きだよ。 目を瞑って心で呟くと、通話ボタンを押した。 *** 向田の鋭い視線を感じながら呼び出し音を聞いた。 告げなきゃいけないことは分かっているが、出ないで欲しいと思わずにいられない。 この電話が繋がったら、紫音と別れることが決定的になるから。 もうほんの僅かの繋がりすら絶たれてしまうから。 コール音を5回ほど聞いた時、それが途切れた。電話が繋がった。 『もしもし…?』 聞こえてきたのは、愛しい人の少し訝しんだ様な声だった。 「あ…俺、」 『ハル先輩!?ハル先輩でしょ?電話してくれたんだ!嬉しい!』 紫音の声が明るくて辛い。 ついさっきまで、2人で幸せな時間を共有したばかりだ。 誰が別れを告げられるなんて思うだろう。 『ハル先輩?どうかしましたか…?』 何も言わないことで紫音の声色が心配そうなそれに変わる。 紫音はいつもどこまでも優しく、俺を気遣ってくれていた。 そんな紫音にこれまでどれだけ救われただろう。 俺は紫音に何の恩返しもできないから、せめて……。 「紫音…ごめん」 『え?』 「もうお前とは会えない」 『え…ハル先輩…?』 「もうこっちには来ないでくれ」 『なんで…?そんな急に、どういう意味ですか?』 「お前が最初に言った通りだ。俺は…向田さんを愛してるから、お前とはもうやっていけない」 『ハル先輩?嘘でしょ?だって、今日だって…』 「お前のことは、好きじゃない。ずっと嘘ついてた」 『そんな…ハル先輩…なんで…?』 「お前があんまり真剣だったから。でも、もう終わりだよ。紫音、今までありがとう。じゃあ、さよなら」 受話器の向こうで紫音が何か言っていたが、聞かずに通話終了のボタンを押した。 紫音の戸惑った様な声だけが耳に残る。 これで、紫音は俺の事を忘れられるかな…。 もう紫音に会えない。 声を聞くこともできない。 辛い…辛い…。 涙が次々と溢れて握りしめたままの携帯の画面に水滴を作った。 すぐに着信音が響き、濡れた画面は紫音の番号からの着信を知らせていた。 紫音、ごめん。 本当にごめん。 こんな終わり方しかできなくて、ごめん。 俺の事、恨んでもいいから、どうか忘れて、夢を追って。 紫音が夢を叶えて、幸せになってくれたら、俺はもうそれでいい。 「しつこい男だ」 手の中で震え続ける携帯を向田に奪われ、もう何も掴む物のなくなった掌を見た。 俺にはもう縋るものはない。 希望もない。 ただ向田の為だけに生きて、向田を喜ばせる為に身も心も捧げなければならない。 1年前に捕まった時から、本当はずっとそうだったんだ。 俺は、向田の鳥籠の中で希望や支えを探してもがいていたけれど、籠の中の鳥には、所詮自由などないのだから。 1年経ってようやくわかった。 俺は向田の所有物だ。 向田は春の悲しみも涙も全く顧みずに、シーツを剥いで、裸の身体に触れてきた。 この扱いが物じゃなくてなんだって言うんだろう。 触られる度に、身体が深い所から冷めていって、とても冷たくなった。 寒い。 空調は適温に調節されている筈なのに、ここはなんて寒いんだろう。

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