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鳥籠 32
ハル先輩を助け出す為に動くと言っても、何か当てがある訳では全くなかった。
あの向田という男だって、ハル先輩のお父さんの知り合いということしか分からない。
そのハル先輩の両親はドイツだ。
何か…何か手がかりはないのか…!
ハル先輩は、きっと去年の10月からずっと、ずっとあの向田に脅されていたんだ…。
何を強要されているのかは、想像したくないが、あの変態のハル先輩を見る目付きと、あの写真を見る限り、一つしかないだろう。
それを考える度に目の前に火花が散りそうな程の怒りが沸き上がってくる。
沢山のヒントを得ていた筈なのに、1年も放置していた自分にも、腹が立ってしょうがない。
自分の感情を自分で制御できなくて、普通なら気付いた筈の事に気付けなかった。悔しくて悔しくて堪らない。
ハル先輩は、どういう思いでこの1年を過ごし、そして俺といたのだろう。
俺にとっては正に薔薇色の毎日で、ハル先輩と想い合っていられただけで嬉しくて幸せで仕方なかったが、きっとハル先輩の胸中は、幸せな思いばかりではなかっただろう。
ハル先輩の俺への気持ちが嘘でなかったとしたら、俺が離れたくないと思う何倍もハル先輩はそう思い、一緒にいれた時間だって、何倍もかけがえのないものだったのかもしれない。
それなのに、俺が単純でバカで、自分本意だったせいで、ハル先輩に2回も別れの言葉を言わせてしまった。
本心を殺して、あんな事を俺に告げるのは、一体どれだけ辛かったことか…。
振られて落ち込んで腐っていた俺の苦しみなんて、それに比べればあまりに小さい。
ハル先輩の気持ちを思うと、切なくて胸が痛い。
そして、今の過酷な状況からすぐに救い出せない自分の不甲斐なさが情けない。
感情的になるな。
突っ走るな。
よく状況を判断しろ。
慎重になれ。
冷静さを忘れるな。
頭を働かせろ。
そう自分に言い聞かせる。
もうこれ以上過ちは許されないのだから。
***
電車を降りて、うろ覚えの記憶を頼りに歩いた。
確かこの辺りに…。
そう思っていた場所に、目当ての看板を見つけて取り合えず安堵した。
〔坂田探偵事務所〕
そこにはそう書かれていた。
電車の中で捻り出したのは、興信所を頼ると言う方法だった。
テレビで、浮気調査とか、家出人捜索とか、ストーカー撃退なんかもしているのを見たことがある。
まずは向田の素性を調べて貰い、手掛かりを得ようとそう思ったのだ。
お金もこれまで貯めたお年玉くらいしかないが、それで躊躇している暇はない。迷わず事務所のドアを開けた。
パーテーションを抜けると、中には、40代くらいの中年の男と、若い女が二人いた。
その内一人は黒い地味目なスーツを着ていて、もう一人は華やかなワンピース姿だった。
「あれぇ、学生さんがこんな所にどうしたの?」
男が丸い目をこちらに向けて言った。
少し草臥れたスーツの、柔らかい雰囲気の男だ。話しやすそうでほっとする。
「あの、ちょっと相談があって…」
「相談?でも君どう見ても未成年でしょ?」
「…はい。でも、お金なら、なんとかしますから!」
「いやいや、そういう問題でなくて、未成年からの依頼は受けられないんだよ」
そんな――。
心配なのはお金の面だけと思っていた。今思い付ける方法はこれだけなのに…。
軽く目眩がして、横の壁に手を着いて体を預けた。
こんなにすぐに行き止まりにぶつかるとは…。
「ちょっと大丈夫?顔色悪いよ?取り合えずここ座って。黒崎くん、お茶出してやって」
依頼できないのなら、ここにいても
時間の無駄だ。
そう思ったが、この数時間の間で感情が色んな方向に動きすぎて少し放心状態だった紫音は、言われるがままソファに腰掛けた。
「あ、向田さんすいません。そしたら、結果が出ましたらご連絡差し上げますので…」
男のこの言葉を聞いて、腰掛けたばかりのソファから勢いよく立ち上がってワンピースの女を見た。
向田だって!?
「ちょ、ちょっと君どうしたの?」
男が少し驚いた声をあげて、向田と呼ばれた女性も固まっている。
全く動じていない様な事務員風の女がお茶を運んできて、コトリと机に置いた音で我に返り、ようやく女から目を離してソファに腰を落とした。
固まっていた女も、いそいそと事務所を出ていった。
バカだな、何やってるんだ。
きっと偶然だ。
でも…向田なんて名字、俺の青木みたいにそう多くない。
本当に偶然で済ませていいのか…?
***
「それで、君どうしたの?仕事は受けれないけど、君みたいな学生がどんなことを調べたがってるのか、興味があるなぁ。お茶代として、ちょっと話す気ない?」
正面のソファに座った男が、愛想のいい笑みを見せながら言った。
俺が今知りたいのは…。
「あの…さっきの女性のこと教えてください!」
「え?なに?一目惚れでもした?でも、残念ながら私たちには守秘義務があってねぇ。教えられないよ」
そうだろう。
教えてくれる筈はないと思った。
だとしたら、あの女を追いかけるしかない!
「ちょっと待ちなさい!」
再び勢いよく立ち上がり、駆け出そうとした腕を、男に取られた。
「何ですか?もうここには用はないんです!」
「だって君、あの人追いかけるつもりだろ?早まっちゃ駄目だよ」
「早まる…って何のことですか?」
「君の目、血走ってるよ。思春期の頃はね、誰でもそういうことあるよね。おじさんも経験あるよ。でも、実際に行動起こしちゃ駄目でしょ。そういうのは、想像だけに留めなくちゃ」
何を言っているのか分からず、一瞬ポカンとしたが、男の諭すような話し方にピンときた。
こいつ、俺が衝動的にあの人を襲うと思ってるんだ。
俺は今、そんな危ない目をしているのだろうか…。
だとしたら、いけない。
冷静になれ。冷静に…。
男の手を振りほどいて駆け出したくなる気持ちを抑えて、一息吐いてソファに腰を下ろした。
「落ち着いた?よかったよかった」
男が再び向かいのソファに腰かけるのを待って、口を開いた。
「驚かせてすいません。でも、言っておきますけど、俺、あの人に変なことする気はありません。俺の話、相談だけでいいので、聞いて貰えませんか?」
言うと、男の目が輝いた。本当に俺の相談内容に興味があるのだろう。
「依頼は受けれないからね。あ、これ一応名刺」
差し出された名刺には、所長 坂田幸彦と書かれていた。
自分も青木ですと名乗る。
依頼を受けて貰えなくも、大人の意見が何か聞ければ、参考になるかもしれないと思った。
向田という男の素性を調べて欲しかったのだと言って、自分が向田のフルネームすら知らない事に気付いた。
こんなんじゃ、依頼を受けて貰えたとしても、調べられなかったかもしれない。
相手の情報が名字しかないことに呆れられるかと思ったが、意外にも坂田は掘り下げて聞いてきた。
なぜその男を調べたいのか…と。
こんな興味本意で聞いてくるような相手に話すべきではない事柄だと思ったが、プロなだけあって坂田の話の引き出し方は絶妙に上手く、また、自分自身のキャパシティを越えた問題だったせいもあり、ポツポツと情報を与えてしまった。
ハル先輩が何を強要されているのかだけは最後まで話さなかったが、その他の状況から、もしかしたら簡単に想像がついてしまうかもしれない。
それでも、話すことを止めなかった。
坂田の顔が、途中からとても真剣な物に変わり、少し考え込んだ後に「協力する」と言ってくれたからだ。
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