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鳥籠 34

個人的に協力してくれると言った坂田から、16時45分に事務所に来て欲しいと言われた。 少し早く事務所前に着いたが、45分ジャストにと不思議な注文をつけられていた為、44分まで外で待ってから階段を登り、ドアを開けた。 パーテーションを抜けようとした時に、坂田の声が聞こえ、その言葉は紫音の足と身体を硬直させた。 向田と、ハル先輩の話だ…! 坂田は女と話をしていて、おそらくその相手はこの前顔を合わせた向田と言う女性。あの女性は向田の妻だったのだ。 そして、向田は毎日の様にハル先輩の住む部屋に出入りしている――。 深く深呼吸をして、いつもの様に冷静にと自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着けた。 盗み聞きをしていることに後ろめたさは多少あったが、聞かずにいられる筈がない。 そして、この話を聞かせることが「個人的に協力する」と言っていた坂田の狙いなのではないかと察した。 向田の妻と接触しろと言うことか。 向田の妻が支払いの話を始めたので、そっとドアを開けて事務所から出ると、階段の下で待ち伏せした。 そう待たずに向田の妻が階段を降りてきた。 どう切り出すのが一番いいのだろう。唐突すぎて考える暇もない。 もう、直球で行くしかない。 俺にはそれしかできない! 「あの!」 階段を降りきった女に近付いて、声をかけた。 女はこちらを見ると、あなたこの前の…と少し驚いた顔で言ったが、逃げ出したりはしなかった。 「少しお話があるんです。し…向田春のことで」 ハル先輩の名前を出したとたん、女の顔色と表情が変わった。この顔は知っている。嫉妬だ。 「どうしてあなたがその事を?」 声を荒げるかと思ったが、女は冷静だった。 表情は嫉妬の色を残しているため、必死に自分を抑えているのだろう。 「ごめんなさい、話を勝手に聞いてしまいました。向田春は、俺の先輩なんです。1年前までは椎名春でしたけど…」 「椎名…?」 女の表情がまた別の色に染まった。驚きと困惑が混じった様な顔。そして、何かを考えこんでいる様だった。 「少し、話をさせて下さい。お願いします」 頭を下げると、女は視線をさ迷わせた後に目配せを寄越して目の前の喫茶店に入って行った。 着いて行っていいんだよな…? *** 女は向田若菜と名乗った。 年齢は恐らく20代後半から30代前半。派手さはないが、落ち着いた上質そうな服を身につけていて、あっさりとした印象の顔をしていた。とりわけ美人でもないが、醜い訳でもない。どちらかと言うとかわいい系統の、どこにでもいそうなタイプだ。 「それで、お話って?」 「はい。ご主人と俺の先輩のことなんですけど…」 「聞いていたなら、分かるでしょ?主人はあなたの先輩と浮気してるの!信じたくないけど、事実なの。ここにそう載ってるの。信じられない…。もう、私どうしたら……」 これまで感情を抑えて淡々としていた若菜が少し激して声を詰まらせた。 まるで必死に張り詰めさせていた糸が切れた様だった。 若菜も、どっちかというと被害者だ。 でも、彼女には真実を知ってもらい、できれば協力して貰いたい。いや、協力して貰わなければならない。 「辛いところ、すいません。でも、聞いて下さい。俺の先輩は決して望んでご主人といる訳ではないんです。関係を強要されていると言った方が正しい」 「あなた何てこと言うの!孝市さんが強姦してるとでも言うの!?」 若菜が少し声を荒げたが、店内はガヤガヤと騒がしく、その喧騒に紛れて、特に紫音達の会話を気にしている人もいない様だった。 「そうです」 「証拠はあるの?」 「それは…ないです。でも、ハル先輩は向田とああなってからずっと様子が変なんです!」 「そんなの、あなたがそう感じているだけじゃない。私には、嫌がっている様には見えないわ!」 若菜はそう言って、書類の束から1枚の写真を机に放った。 それは、向田とハル先輩が手を繋いでマンションから出てくる所を写した写真だった。 以前宮原先輩から見せられた物とは違い、ハル先輩の表情までよくわかる。 無表情で、虚ろな目をしている。 ハル先輩のこんな顔は初めて見た。 俺といるときは、いつも口角が上がっていたと思うし、その瞳はキラキラ輝いていた。 ハル先輩に、こんな顔をさせるなんて…。 *** 「これのどこが嫌がってるっていうの?」 若菜にはわからないのか?ハル先輩はこんなにも絶望した表情をしているというのに。 形だけ見れば、手を繋いでいるし、二人の身体はぴったりと隙間なくくっついていて、恋人同士の距離にしか見えない。でも、この表情は…。 「俺には、嫌がっている様にしか見えません。本当のハル先輩は、こんな暗い表情をする人じゃないから」 若菜は写真に目を落としたが、すぐにわからないと言った。 「私にはわからないわ。全部あなたの主観よね?証拠もないのに、孝市さんを侮辱するのはもうやめて!」 「でも…っ」 「いい加減にして。名誉毀損だわ」 「絶対にあり得ないですけど、もし合意だとしたって、ハル先輩は未成年です!ご主人のやっていることは犯罪じゃないですか!」 これは最後の手段だと思っていたことだ。この言葉は、妻である若菜を頑なにさせるだけだと解ってはいたが、引き留める言葉が他に見つからなかった。 「…相手が女の子なら、そうかもしれないわね。でも、あなたの先輩は男の子じゃない。男同士で淫行って、成立するの?そもそも、主人とその子がそういう関係って証拠も、どこにもないわよね?書類上は親子の関係なんだから、毎日会っていてもおかしくはないわ。警察が動くと思う?」 「あなただって、さっき浮気って認めたじゃないですか!」 「じゃあ訂正するわ。主人はわが子の世話をしているだけよ。男の子相手に浮気なんて、する筈ないじゃない」 「そんな…」 「もう帰ってもいいかしら」 若菜が鞄に手を伸ばしたのを見て、慌てる。 何か、何か引き留めるものはないか…。 若菜は、元々のハル先輩を知らないから、信じられないんだ。 ハル先輩の本来の姿を知って貰える何かがあれば…。 そうだ! 「待ってください!これが証拠にはなりませんか?」 携帯をいじって、ある画像を若菜に見せた。 去年、全国優勝したときにハル先輩と撮った写真だ。 あの無表情とは全く違う、キラキラと弾ける様な笑顔のハル先輩を見れば、少しは本来のハル先輩を分かってくれないだろうか…。 「これ、別人じゃない。髪の色も目の色も全く違うわよ」 「同一人物です!別人に見えるのは、色が違うからじゃない!表情が全く違うからです!これが本物なんです!ハル先輩は、あんな能面みたいな無表情を浮かべる人じゃなかった!俺は、本物のハル先輩を取り戻してやりたいんです!」 無言で携帯の写真にじっと目を落とす若菜に、必死に言い募った。頼む、頼むから手助けをしてくれ。わかってくれ…。 「…無理よ。私にはそんなこととても信じられない…」 若菜の声色からは、先程までの強気が消えていた。 もしかしたら…。 この人は最初から向田を疑っていたのではないだろうか。 普通なら、夫を強姦魔呼ばわりされた時点で怒って話なんて聞かないんじゃないだろうか。 若菜の反応は、疑っていることを認めたくなくて、必死になって否定しているようにすら感じる。 「ハル先輩は脅されているんです。そのネタが何なのかは、まだ突き止めていませんが、養子にさせられていることも関係している筈です。どうか、助けてはくれませんか。ハル先輩を、本物の、明るかった椎名春に戻してあげたいんです…」 「椎名…。やっぱり、椎名薬品工業の…」 若菜が小さく呟いた。椎名薬品工業?どこかで聞いた様な…。 え?と聞き返すと、若菜はふと我に返ったようにこちらに少し怯えた様な視線を向けて、なんでもないと言った。そして、机の上に出した写真をそのままに、鞄だけ掴むと逃げるように立ち上がった。 「ちょ、ちょっと待ってください!」 慌てて追いかけたが、若菜は支払いもせずに真っ直ぐ店を出た。 すぐに追いかけたかったが、こんな時に限ってレジが混んでいる。 入り口にいたウェイトレスに伝票と1000円を渡して、お釣りはいらないと店を駆け出した。 もう店の前には若菜の姿はなかった。駅の方角に走ると、足早に歩く若菜の後ろ姿を見つけ、追いかけて腕を掴んだ。 「どうして逃げるんですか!」 ぎょっとした若菜の顔は引き攣っていたが、すぐにキッと目をつり上がらせて言った。 「逃げるなんて、失礼ね。言ったでしょ?もう話すことがないからよ」 「嘘だ!あなた、本当は向田を疑ってる!」 「やめて!」 若菜の大きな声に周囲の注目を集めてしまい、怯んだ隙に手を振りほどかれた。 「もう着いてこないで。来たらまた大声出すから」 駅に向き直ってつかつかと歩き出す若菜を追うことはできなかった。また叫ばれては通報されかねない。 くそ! あと一歩だった筈なのに! どうして若菜は急に逃げ出したんだ…。

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