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鳥籠 35
自宅に戻る前に坂田の事務所に寄った。一言お礼を告げなければと思ったのだ。どうだったと聞かれ、正直に逃げられてしまったと話すととても残念そうにしていたが、正式に依頼ができない以上、もう坂田を頼る訳にはいかない。
坂田は十分過ぎるほどに協力してくれた。俺が貰ったチャンスを生かし切れなかっただけだ。
これから一体どうしたらいいのだろう…。
ポケットに手を入れると、若菜が置いていった向田とハル先輩の写真に指先が触れた。この写真のハル先輩の表情を思い出すと、とても心が苦しくなる。
あんな風に、まるでもう何も感じていないかの様な諦めた表情を浮かべるようになるまで、どれだけ辛い思いをしたことだろう…。
そんな地獄の様な場所からは一刻も早く救い出したいのに、解決の糸口すら掴めないままだ。こんなんじゃ、一体いつハル先輩に手が届くのか、見当もつかない。
「あれ、紫音君今日は早いね」
悶々としながら自宅の門に差し掛かった時、声を掛けられた。
隣に住む長谷川さんだ。
長らく海外に赴任していたが、去年の11月に帰って来たのだ。東京勤務になったと言っていた。
「こんばんわ。長谷川さんも今帰りですか?」
「今日は定時で帰ってきたから」
紫音は夏まで部活で、引退してからも名門進学校である潮陽高校に入学する為に連日居残って勉強をしていたので、長谷川と顔を合わせるのはかなり久しぶりだ。
最後に会ったのは、まだ寒い時期だったように記憶している。
「お疲れさまです」
今日は定時で…と言っていたので、きっと長谷川さんも毎日遅くまで働いているんだろう。普段の俺の帰宅よりも遅いんだろうな。
そんなことを疲れた頭でぼんやり考えていた時に、何か引っ掛かる物を感じた。
若菜が最後に呟いた会社名のことだ。
どこかで聞いた事があると思っていたのだが、そういえば…!
「長谷川さん!」
自分の自宅に入ろうとしていた長谷川を追いかけて呼んだ。
ん?と振り返る長谷川に聞いた。
「長谷川さんの勤務先って、椎名薬品工業って所じゃなかったですか?」
「あぁ、そうだったよ。…でも、去年の秋に買収されちゃってね。今は向田製薬って名前になったよ」
椎名……向田……!
長谷川の言葉が何度も頭の中をリフレインした。
そして、殆ど完成されていないパズルのピースの重要な部分がいくつか填まったのを感じた。
こんなに傍に、手がかりがあったなんて!
***
「紫音君?どうした?」
「長谷川さん!今少し時間を頂けないですか!?話を聞かせて欲しいんです!」
たぶん今の俺は結構な剣幕で長谷川さんに迫っている。長谷川さんは少し後退りしたが、大丈夫だよと優しく答えて、自宅に招き入れてくれた。
「あら、お隣の紫音君?久しぶりね」
長谷川さんの美人な奥さんが笑顔で迎えてくれて、少しだけ心が落ち着く。
リビングのソファに通されて、奥さんが暖かいお茶を入れてくれた。
長谷川さんも奥さんもまだ30才くらいで、見た目もとても若い。しかも美男美女だ。
噂好きの母が、二人は大学の同期だと言っていた気がする。
「それで…どうしたの?」
正面に座った長谷川が、少し心配そうな表情で聞いてきた。
これまで人懐っこいわけでもなく挨拶程度の付き合いだった俺が突然あんな風に迫れば、驚きも心配もするだろう。
「長谷川さんの会社のことなんですけど、椎名薬品工業って、前に長谷川さんの家で預かったことがある椎名春の親の会社だったりしませんか?」
今まで失念していたが、長谷川さんは、ハル先輩ともハル先輩のご両親とも知り合いだ。
長谷川さんに改めてハル先輩=ハルちゃんであることを確認してはいなかったが、それは間違いないと確信があった。
「あー、確かに前に一度社長の所の春くんを預かったことがあった。よく覚えてたね」
「じゃあ、やっぱりハル先輩のお父さんの会社なんですね!?」
「ハル?あぁ、春くんね。そうだよ。椎名薬品工業は、春くんのお父さんの会社だ。社長の拓弥と俺達は同期でね。大学の頃、一緒に会社を立ち上げたんだ。初めは10人くらいの小さな会社だったんだよ。俺を含めて設立当初のメンバーは、去年の買収にすごく心を痛めてる。業績も悪くなかったのに…。あ、ごめんね、こんな話…」
長谷川が自嘲して話を止めたので、慌てて言い縋った。
「そんなこと!もっと詳しく教えて欲しいんです!…買収した向田製薬の社長は、もしかして向田こういちと言うのではないですか?」
「あれ、よく知ってるね。そうだよ。向田孝市。新聞で見たの?」
新聞にも載ったのか…。
新聞なんて普段殆ど見ない。
1年前は、バスケかハル先輩のことばかり考えていて、ニュースなんてろくに気にした事もなかった。
俺はつくづく単純バカだ…。
「ハル先輩が今大変なことになってて…」
「春くんね…。本当、気の毒だよ」
「何か知ってるんですか!?」
「あぁ、拓弥からちょっと聞いてる。向田製薬の跡取りにする為に、今の社長に…向田さんに、春くんを養子に出したんだろう。あんな可愛い子をどうしてって拓弥にも問い詰めたんだけど、どうしようもなかったとしか言わなくてね」
そうだったんだ…。
ハル先輩の両親がドイツに行っている隙を突いて、向田が養子のことも、その他の事も好き勝手しているのかと思っていたが、実の両親の承諾なしに養子縁組なんて、きっとできない。
と言うことは、向田に弱味を握られているのは、きっとハル先輩のお父さんの方だ!
「あの、前の会社が買収された経緯を、もう少し詳しく知りたいんですけど…」
「紫音君、何でそんなことを知りたいんだ?」
長谷川の目が訝しげに細められた。これ以上何も言わないで教えてくれることは無理だろう。
「ん?……これは…!!」
言葉で言うよりも正確に伝わると思い、ポケットの中の写真を長谷川に差し出した。長谷川は目を丸くして絶句していた。
「拓弥は、これを知っているのか!?いや、知ってたら放っておく筈がない…。なんてことだ……」
長谷川の声が歪んだのを聞いて近づいてきた妻も、長谷川の持つ写真を見て手で口を覆って言葉を無くした。
「…こんなの、犯罪よ!桜ちゃんだって、これを知ったらどう思うか…。すぐ引き離さなきゃ!証拠はあるんだから、すぐに警察に行きましょう!」
「久美、待て。俺だって許せないけど、これが何の証拠になるっていうんだ?こんなの、何とでも言い逃れできてしまうじゃないか」
「じゃあ放っておくの?子供のいない私たちにとって春くんは、甥みたいな存在だったじゃない!私はとても見過ごせない!」
「俺だって見過ごすつもりはない。でも、これだけじゃ警察は動かないよ」
「じゃあ、春くんに証言して貰えばいいわ。春くんが望んでこんなことしてる筈ないんだから」
「それは…無理だと思います――」
長谷川夫妻が話していることは、俺だって考えた。若菜にはああ言われたが、向田のしていることは歴とした犯罪なんだから、警察に動いて貰おうと。
そして、実際に一昨日警察署に相談に行ってみたが、男同士であるのをまず鼻で笑われ、確証がないとして全く相手にして貰えなかった。被害者から直接訴えがあれば動かざるを得ない様だったが、脅されているハル先輩が被害を訴えられる筈がない。
「そうか…。紫音君、春くんが脅されているというのは、本当なのか?」
「ハル先輩のこれまでの行動を見ればまず間違いないと思いますが、何を握られているのかはまだ…。俺は、ハル先輩自身の弱味ではなくお父さんの弱味を握られている可能性が高いんじゃないかと思うんです」
「成る程。だから会社の事を知りたがっているのか。俺達が知っている事は何でも話そう。久美も、去年辞めたが、ずっと椎名で働いていたんだ」
***
長谷川夫妻の話によると、椎名薬品工業の社員が不正を働いたことが、買収されるきっかけになったとのことだった。
そこから見えた仮説はこうだ。
社員の間でも殆ど知る者のいない筈のその情報を、何らかの方法で掴んだ向田が、ばらされたくなければ…とハル先輩のお父さんを脅して、会社も、ハル先輩も自分の物にした。
だが、この仮説には一つ穴がある。
向田が椎名薬品工業を手に入れた時点で、椎名の不正は向田の不正になる筈だ。
つまり、そのネタでハル先輩を縛り続けることは、普通ならできない。
普通なら。
できるとしたならば…。
向田の目的が初めからハル先輩を手に入れることだけであった場合だ。
ハル先輩を手中に入れるためだけに椎名薬品工業を手に入れたのであれば、会社が傾くことすら気にせず、不正をネタに強請り続けることは可能だろう。
だが、それが正しければ、向田の執着は思わず身震いしそうなくらいに強い。
生半可な事では、まずハル先輩を手離したりしないだろう。
外堀をしっかりと埋めていって、もう言い逃れが出来ないという状態になってから接触しないと、こちらの動きを読まれ、先回りで全ての証拠を潰されかねない。
向田との対峙は恐らく一発勝負だ。
その時までに、どれだけ向田の弱味を掴めるかが、ハル先輩を救うための鍵となるだろう。
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