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鳥籠 39

「青木くん、止めるんだ!」 誰かに振り上げた腕を掴まれた。 邪魔するなと振り返ると、そこには坂田が立っていて、真っ赤だった視界に色が戻った。寝室の入り口には若菜と、初老の男の姿も確認できた。 俺は、ちゃんとできたよな…? もう一度坂田を見ると、坂田が強く頷いてくれて、安堵に力が抜けた。 同時にハル先輩の事が頭を過り、立ち上がってベッドに乗った 膝立で這ってハル先輩に近づく。 剥き出しだったハル先輩の下半身には再びシーツが掛けられていて、恐らく坂田が部屋に突入した際にかけ直してくれたのだろう。 ハル先輩は、この騒ぎの中でも目を開ける様子はなく、眠っているというよりも気を失っている様で心配になる。口元に手を当てると、微かに呼吸していることは感じ取れて一先ずは安心したが、下半身に入れらている物を一刻も早く取り去ってあげたい。 だが、こんなに人目がある所ではどうしようもなく、取り合えず首に填められた首輪に手を伸ばしたが、金具に小さな南京錠がついていて外せなかった。 今の状況では何もしてあげられないが、ハル先輩の傍にいたくて、ベッドに腰掛けて髪を撫でた。 「おいガキ!春に触るな!…貴様、坂田。何のつもりだ!?」 殴られて頬が腫れ始めている向田が身体を起こして紫音と坂田を交互に睨みつけた。 床に座り込んだ向田からは、巨大なベッドが視界を塞いで、まだ入り口の若菜達の姿は見えていない様だ。 「あなたが、未成年と淫行している証拠を集めてほしいという依頼を受けまして、調べていました」 「淫行?バカな。俺がそんなことする筈がないだろう。春は俺の養子だ。お前らの方こそ、不法侵入の上に暴力まで。許さんぞ!今すぐ警察を呼べ!」 向田は床に座り込んで偉そうにふんぞり返って叫んでいる。 「警察を呼んでもいいんですか?私たちは淫行の証拠を掴んでいますよ。先程の青木くんとの会話は、全て録音してあります。それに、この監視カメラ…。そんなことまでしていると思いませんでしたが、録画になっている様だ。少なくとも今日行われた事は映像として保存されていますね?」 「そ、そんなことは知らん!さっき言ったことも、この小僧をからかっただけだ!」 「それを警察が信じるでしょうかねぇ?」 向田の顔色がみるみる変わり、ずっと余裕綽々だった態度が崩れて焦りを見せた。 「坂田、いくらだ?いくらで依頼を受けた?俺が倍払おう。いや、倍とは言わない、お前の言い値を払う!だから、今日はこのまま帰ってくれ!」 「向田さん、あなたねぇ…」 「もうやめて!」 突然響いた女の声に、向田の媚を売るような顔が固まった。 向田がゆっくり立ち上がり、若菜達に目を向けるやいなや、ギクリとしたように身体を固まらせた。 「若菜…それに……」 「ずっと、嘘ならいいと思ってきた。でも、あなたは、本当にこの子に酷いことをしていたのね…。私を使って椎名を手に入れたのも、この子が欲しかったからなのね!」 「ちょっと待て、若菜。坂田の言っていることは誤解だ。しっかり話せば分かるから…」 「孝市、もういい加減にしなさい」 初老の男が…向田の父親の孝之が口を挟んだ。有無を言わさない、威厳のある話し方をする人だと思った。 「父さん、なぜ…?あなたはアメリカにいるはずなのに!」 「若菜さんに話を聞いて、私も信じたくなかったが…真実を見せるとあの若者から何度も説得されて、今日アメリカから戻ったよ。まさかこんな物を見聞きさせられるとは…」 「父さん、こんな奴らの言うことを信じないでください!俺とこの子は、養子縁組してるんです!ただの親子ですよ!」 向田が目を剥いて言うが、その弁を真に受ける物は、ここには居ない。 先程の紫音との会話と、首輪をつけられてベッドに横たわる春の姿が、全てを物語っていた。 「もういい。孝市、お前は取り返しのつかないことをした。この子と、椎名さんに、どう詫びればいいのか、私には検討もつかない…。さあ、この犯罪者を警察に付きだそう。坂田さん、証拠は押さえてますね?」 孝之がつかつかと向田に歩み寄って、その腕を取った。 向田の様子は、先程紫音と対峙していた時とは180度変わり、首根っこを押さえられた猫のようになっていた。 孝之をこの場に引きずり込むことは若菜を懐柔する以上に大変な事で、救出までにこんなにも時間がかかってしまったが、それでも連れてきて正解だったと思った。 それ以外にも、ハル先輩にとってより負担の軽い解決方法を取るためにはこの人の協力は必要不可欠だったのだ。 「警察に行くのは、ちょっと待って下さい」 「どうした青木くん。私に遠慮はいらん。犯罪者の父と後ろ指を指されても致し方ない」 「すいません、違います。俺が警察に連れていって欲しくないのは、あなた達親子の為じゃない。ハル先輩の為です」 *** 初めは、ハル先輩をすぐにでも救いたいという気持ちがあまりに強く、警察に頼ろうと安直に思っていたが、少し冷静になって考えたらそれは不味いということに気がついた。 憎い向田に法の裁きを受けさせたい気持ちは強くあるが、警察に付きだしてしまえば、被害者のハル先輩も事情を聞かれる。それこそ、根掘り葉掘り思い出したくないことまで聞かれるだろう。 それに…向田は大会社の社長だ。 それが未成年淫行や強制わいせつ罪なんかで捕まったとなれば、マスコミが黙っていない。更に相手が少年ともなれば、世間の興味も引いてしまう。ワイドショーや週刊誌の格好の餌だ。 そうなればハル先輩も平穏無事ではいられない。 心ない取材が殺到して、ハル先輩の傷を抉るだろうし、ハル先輩には全く非はないが、世間からもそういうレッテルを貼られ、将来まで奪われてしまう様な気がした。 それだけは避けなければならない。 この1年多くの物を向田に奪われたハル先輩からは、もう何一つ奪いたくない。奪っていい筈がない。 自分の考えを話すと、孝之も他の2人も頷いてくれた。 「君の言う通りだ。だが、この男を野放しにはできまい。…子のしでかした事は、親である私の責任でもある。孝市、お前は社長の特権を使って椎名さんを脅していたそうじゃないか。もうそんな事はさせん。お前には社長を辞任して貰おう」 孝之がピシャリと言い放った。 すっかり力を無くして項垂れた向田が勢いよく頭を上げた。 「そんな、父さん!そんな勝手、いくらあなたでも出来ないでしょう!」 「私は会長だぞ。出来ない訳がない。明日の役員会で早速話す。恐らく反対意見は出ないだろう。お前の勤務態度には、以前から苦情が出ている。そして、後任が決まり次第すぐにお前は私と共にアメリカに行くぞ。もう日本に…この子と同じ土地には立たせん!」 「そんなのあんまりです!」 向田は不満をつらつらと述べて抵抗したが、孝之はうるさいと一言恫喝してそれを黙らせた。 「私に今出来ることはこの程度ですが、他に何か出来ることがあれば連絡して下さい。最大限努力します」 孝之は更に、こいつが傍にいたら安まらないでしょうからと言いおいて、若菜と放心状態の向田を連れて帰って行った。 孝之の提案は、紫音が願っていた通りの物だった。 向田が日本からいなくなる。きっとこれでハル先輩も安心できる筈だ。 向田がいなくなったことで、緊張に張り詰めていた身体から力が抜けていく。 無意識に全身に力が入っていたのか、普段使わない筋肉がプルプルと痙攣した。 坂田に席を外してもらって、なるべく子細に見ないようにしながら、それでも丁寧にその身体から異物を取り去った。 ハル先輩は、少し苦しそうに眉根を寄せたが、目覚める気配はなかった。 眠り続けるハル先輩と二人きりの空間で、胸に実感が沸いてきた。 終わったんだ…。 ハル先輩を救い出せた。 もうハル先輩を苦しめる物は何もないんだ。 *** まるで「それ専用」と言わんばかりのマンションにいるのが嫌で、ハル先輩も連れて坂田の車で自宅まで送って貰った。 ハル先輩の身体を隠すものは、あのテラテラとしたシーツしかなかったので、それを身体に巻いて、抱き抱えて家に入ると、普段あまり動じない母もさすがに驚いていた。 それでも、紫音の頼み通りに1階の和室に布団を用意してくれた。 そこに慎重にハル先輩を寝かせて、シーツの上から布団をかけた。 「なあ、ハサミない?よく切れるハサミ」 台所に立ってフキンを濡らしていた母親に話しかける。振り返った母は、こちらに訝しげな目を向けた。 「さっきの子の首のあれ…もしかしてあんたがしたんじゃないでしょうね?」 「んな訳ねぇだろ!あれ取りたいから、ハサミかして!」 母親の目はまだ何か勘繰るように細められていたが、大きめのキッチンばさみを引き出しから出して渡してくれた。すぐに和室に引き換えそうとしたら、待ちなさいと母に呼び止められ、熱々のおしぼりを渡された。 「あの子の頬、拭いてあげなさい。涙の跡が、可哀想だから…」 涙の跡…。気づかなかった。 あのマンションの照明はどこも薄暗かったし、家に連れ帰ってきてからも、ハル先輩をそこまで見る余裕がなかった。 足早に和室に引き返し、首輪と首の隙間にハサミを通して、少しずつ切っていった。かなり頑丈な革で、時間がかかったが、ようやく切り離すことが出来た。 その首輪の裏には、「Koichi.M」と大きく刻印されていて、改めて向田への強い憎悪が沸き上がる。 こんな異常な執着を一身に受け、異常な行為を強要され続けたハル先輩は、どれだけの恐怖と絶望を感じていたことだろう…。 ハル先輩の寝顔をよく見ると、母が言った通り、頬に幾筋も涙が伝った跡があるのがわかった。 温くなったおしぼりをそっと頬に当てると、ハル先輩の表情が、ほんの僅か和らいだ様に見えた。 「もう大丈夫ですからね。俺が、一生ハル先輩を守りますから…」 ハル先輩の頬を拭いながら何度も何度も呟いた。

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