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飛翔 1
深い底無し沼の様な暗くて重たい泥の中にいた意識が、急速に浮上した。
行為の最中に意識を失った時は、必ずそんな目覚め方をする。
目覚めても気持ちも身体も少しもリセットされていなくて、気を失うのと眠るのとでは、同じ様に見えて大分違うなぁといつも思わせられる。
だが、今日は少しだけ気分が違った。
まだ意識は微睡んでいて、目も開かないけれど、懐かしくて、心がほっとする様な匂いが鼻をくすぐった気がした。
こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。
いつもは開けたいと思わない瞼を、今日は開きたかった。
あれ?俺、ここ知ってる…。
目に写る景色を見て、一番始めにそう思った。
ここはなぜかいつもの薄暗いマンションの寝室ではなかった。
知っていると思った景色は、窓の向こう側だ。手入れの行き届いた植木が庭全体を囲ってあって、小さな池には大きな蓮の花が咲いている。
部屋の様子を確認しようと首を回すと、左下に黒い塊が…誰かの頭があった。
その艶のあるストレートの髪は――。
一気に頭が働き始めたとき、その頭がモゾモゾ動いて起き上がり、こっちを見た。
目が合った。
「あ、ハル先輩!おはようございます」
紫音は、頭の中にいた思い出の姿と同じ顔で綺麗に笑った。
なんで?
なんで紫音が傍にいるの?
ここは一体どこ?
俺は、昨夜もあのマンションで孝市さんに散々やられてた筈…。
孝市さんは?孝市さんはどこ?
紫音は俺の傍にいちゃいけない!
孝市さんに見つかる!
ここがどこか知らないけど、マンションにいないことは孝市さんにすぐバレる。
帰らなきゃ!早く!
「ちょ、ハル先輩!もう少し休んでた方が…」
慌てて立ち上がろうと身を起こしたら、身体にかけられていた布団もシーツも身体からはだけて、裸の上半身が露になった。
白い肌に、赤い痣がいくつも点在する穢れた身体が。
慌てて布団を持ち上げて身体を隠した。
紫音に、見られた…。
「ハル先輩、混乱してると思うけど、落ち着いて聞いて下さい」
その声に反射的に紫音を見ると、紫音は少し顔を赤らめて目線を逸らしていた。
もしかしたら、さっきのもすぐ隠したし、見られていないかも…。
…そんなことより!
「紫音、俺行かなきゃ…」
「行くって、どこにですか?今日は土曜日だから学校は休みですし…」
「マンションに、帰らなきゃ!」
そう言うと、紫音が少し悲しそうな顔をした。
こうしている間にも、孝市さんは俺の所在がわからなくて探し回っている筈だ。
もしも紫音といるのがバレたら…考えるだけで恐ろしい。
「何か服、貸してくれないか?宮原通してちゃんと返すから!頼むよ、早く…」
焦燥感にかられて捲し立てていると、ふいに紫音がこちらに向き直り、あっと思う間もなく抱き締められた。
太陽みたいな紫音の匂いと、力強い腕の温もりを――ずっと欲しくて欲しくて堪らなかった物を与えられて、思考が停止した。
「ハル先輩。ずっと…ずっと本当に辛かったですね…」
紫音の声が真っ直ぐ胸に届いてきて、こんなことしてる場合じゃないのに、その腕を振りほどけなかった。
「もう大丈夫。何も心配はいりません。だから、もうこの腕の中からいなくならないでください…」
紫音が続けた。
大丈夫、心配はいらない。
紫音が何を指してそう言っているのかわからなかったが、そう言われると不思議と心が落ち着いていくのがわかった。
落ち着いたら、今の状況が分かって少し赤面した。
抱き締められた拍子に持ち上げていた布団がずり落ちて、上半身は裸のまま紫音に密着している。
こんなに穢れた身体は、こんな風に紫音に優しく抱き締めて貰う価値もないのに…。
そう考えたらとてもいたたまれなくなってきて、紫音の肩を軽く押した。
紫音は春の合図に気付いてるだろうに、その腕を解こうとはしなかった。
スッと襖が開く音がして、「あら…」と女の人の声がした。それを聞いてようやく紫音が離れると、目の前に紫音によく似た綺麗な顔立ちをした女性が立っていた。
慌ててまた布団を掴んで身体を隠す。
「なんだよ、勝手に入ってくんな」
紫音が憮然とした声で言ったが、女の人はそれを全く気にする素振りもなく春に歩み寄った。
「目覚めたのね。よかった。身体痛い所とかない?服着せてあげようと思ったんだけど、この子が触るなって煩くて…。これ、紫音のだから少し大きいと思うけど、よかったら使ってね。あ、お風呂も沸いてるから先に入って来たら?その間に朝ごはん作っておくからね」
女の人に捲し立てられて、春は目を丸くして頷くことしかできなかった。
その人が着替えを置いて出ていくと、紫音が少しぶすっとした口調で俺のおふくろですと言った。
そして、俺も出てますからと襖の外に出て行った。
手早く下着と服を身につける。紫音の母親が言った通り服はブカブカで、そこまで体型が違うのかと思い知らされた。袖とズボンの裾を折れば着ていられない事もなかったが、身衣が余っていて着られている感じだ。
襖を開けると、壁に背中を預ける様にして紫音が立っていた。
「あ…ハル先輩すげーいい」
こちらを見るや否やそう言った紫音は、また頬を赤く染めていたが、今日初めて真っ直ぐこちらを見た様な気がした。
「紫音。俺帰らなきゃ…」
言っている途中でまたさっきの…紫音の母親がやってきて、浴室はこっちと手を引かれた。
洗面所まで案内され、タオルも渡されて、美味しい朝ごはん作っておくからねとウインクして紫音の母親は洗面所の扉を締めて行った。
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