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飛翔 3
紫音が口を開くのをじっと待つ春を見て、紫音の視線は少し和らいだ。
そして、決意したように口を開いた。
どうか、知られていませんように…。
「まず、ずっと向田の事気付いてあげられなかったことを謝らせてください。本当にごめんなさい!」
ガバッと頭を下げた紫音の、綺麗な旋毛を見ながら、春の心臓は嫌な予感に恐れ高鳴った。
「向田の、こと…って?」
平静を装ったつもりが上手くいかなくて、上擦った声になる。
お願い。見当違いの事を言って。
「向田が、1年以上ハル先輩にしていた事です。その……身体を…。でも、もうそんなことさせません!ハル先輩のお父さんが握られてた弱味はもうなくなりましたから。だから……」
「身体を…」その言葉を聞いて、知られていないかもというほんの微かな希望も砕かれた。
目の前が真っ暗になった。その後の紫音の言葉は、全く頭に入って来なかった。
紫音に知られた。
汚いことがバレた。
もう嫌われてもいいと思っていたけど、それだけは知られたくなかったのに…。
「ハル先輩!大丈夫ですか!?ハル先輩!」
いつの間にか隣に来ていた紫音が、春の肩を抱いて顔を覗き込んでいた。
それに気付いてすぐ、肩におかれた手を振りほどいて、身体を背けた。
触らなくていい。
俺はこんなにも汚くて、紫音だってそれを知ってるんだから、無理して前みたく優しくしなくてもいい。
俺は紫音に触られる価値もない穢れた存在なんだから。
「ハル先輩…。すごく顔色が悪い。嫌なこと、思い出させましたよね…」
紫音の声が辛そうで、なんで俺なんかの為にそんな声を出すんだろうと思った。
「ハル先輩、俺、もう触らないですから、こっち向いて貰えませんか…?」
無理だ。そんなのは無理だ。
俺はできることなら今すぐ紫音の目の前から消えたい。
紫音の綺麗な瞳に映るのさえおこがましい。
ぐっと身体に力を入れて立ち上がった。
そのまま紫音を見ずに部屋を出ようと1歩踏み出した所で、また紫音に腕を取られた。
「あっ、その、ごめんなさい!」
慌てたように紫音の手がすぐに離れたので、また足を進めると、再び紫音に腕を捉えられた。今度は強く掴んだまま離れていかなかった。
「ハル先輩、どこに行くんですか?」
「…帰るんだよ」
「帰るって…なんでそうなるんですか?もうあいつの言うことを聞く必要はないんですよ!……まさか、ハル先輩は帰りたいんですか…?」
帰りたい筈ない。あんな場所に帰りたくなんかない。
でも、仕方ないじゃないか。
汚い俺に相応しい場所は少なくともここじゃないから。
春の沈黙をどう捉えたのか、紫音が腕を強く引いて身体を引き寄せると、両肩を掴んで向き合い、目線を合わせようとしてきた。
「ハル先輩!こっち見て!」
見れない。
紫音がどんな目で俺を見ているかだって知りたくない。
「…見ないとキスしますよ?」
その予想外すぎる言葉に驚いて俯けていた顔を上げた。
思わず見た紫音の顔からは、軽蔑の色は見えなかったが、冷たい目をしているなと思った。でも、ただ冷たいだけじゃなくて、その奥に燃えるような怒りが隠れている様な気がした。
俺に怒ってるんだ…。悲しくて見ていられなくて目線を下げると、紫音の手が顎を捉えて上を向かされ、強引に口づけされた。
いつも紫音がくれていた優しいキスじゃない。すぐに唇を割って舌が入ってきて、まるで貪るように口の中を動き回り、捉えられた舌を痛いくらい強く吸われた。
無意識に抵抗した両手は顔の横に宙を浮いた形で紫音の手にからめられて身体は密着した。
何度も角度を変えて口づけられ、その度に卑猥な水音が響いて、こんな状況なのに頭に血が上って変な気分になりそうだった。
やがて密着した紫音の下半身が反応しているのに気付いて、更にいやらしい気分を煽られる。そんな自分を強く嫌悪したが、火のついた身体は収まらない。
ちゅっと唾液の糸を引かせながら唇を離した紫音が、熱を持った眼差しで見つめて来て、片手を春の下半身に伸ばした。
「ハル先輩、硬くなってる…」
身体の変化を指摘され、顔から火が出る程恥ずかしい。紫音の変化にも気付いたのだから、こっちだって知られて当然だ。
顔を隠すように俯いたら、下半身を撫でる紫音の手が見えて、更に頬が熱くなった。
「やっ…紫音、やめてくれ…」
「止めないです。俺、ハル先輩のこと誰にも渡すつもりありませんから。ハル先輩を俺のものにしたい」
紫音の手がまた顎を掴んで、目線を合わせられてまた唇が降ってくる。その情熱的な瞳に、口づけに、何もかも忘れて酔いそうになった。
紫音がこんな身体と知っても、それでも抱きたいのならこの身体をあげてもいい。
一瞬そう考えたけれど、すぐに孝市さんにされた色んな事が脳裏を過った。
とても、無理だ…。
顔を背けて紫音の深い口づけから逃れると、未だ絡まりあっていた左手をほどいた。
「…俺は嫌ですか?」
紫音が悲しそうな声で言った。
違う。紫音が嫌なんじゃない。
「俺が、汚いから!…だから、もう俺なんかに触らない方がいい」
「汚い…?ハル先輩、まさか、向田にされたことで自分が汚れたと思ってるんですか?それで俺から離れようと…?」
紫音が肩を掴んで軽く身体を揺すった。
もう隠す必要も取り繕う意味もない。
だってもう知られている。
「だって、汚いじゃないか!俺がずっと何されてたか、知ってるんだろ?紫音と会ってた裏で、ずっと俺は孝市さんに抱かれてたんだ!しかも、俺の身体はそれを悦んで…。そんなのが汚くなくてなんだっていうんだよ!」
「ハル先輩は脅されてたんです。何一つ悪くない!それに、例え無理矢理でも、何回もやられれば感じるのは当たり前です!それは悦んでるとは言わない!」
「紫音は俺がどんなだったか知らないから!厭らしい声で、中に出してって何回も何回もねだったんだ!精液もたくさん飲んだし、身体中にかけられた!全身すごく汚いんだ!だって、小便だって…んっ…」
突然紫音の唇に口を塞がれて声を失った。
その口づけは俺を黙らせるのが目的だった様で、すぐに離れていった。
「もういいです。ハル先輩は何をされたって綺麗なんですから。誰が何と言おうと、ハル先輩が自分を汚いって思ってても、俺にとってハル先輩は誰よりも何よりも綺麗です!」
紫音は春の震える身体を抱き締め、その耳許で「ハル先輩は綺麗だ」と囁き続けた。
そんなことない。俺は汚い。
洗っても洗っても、つけられた痕も、臭いもなくならない。
何よりも、いやらしい事を教え込まれたこの身体はもう変えようがない。
「違う。汚い 」と紫音の言葉を否定したが、その度に紫音は「汚なくない。綺麗だよ」と言い直した。
春が何も言えなくなっても、髪を撫でて綺麗だと言い続けて、いつの間にかそれが「大好きだよ」に変わった。
「何言ってるんだよ。俺なんか…」
「ハル先輩の事が大好きです」
「やめろよ…」
「愛しています」
もう否定の言葉が出てこなくて、それでも何度も何度も紫音は愛してると耳許で言ってくれた。
その言葉が心に沁みて、目の前が霞んだ。涙がポロポロ零れて、心を麻痺させていた壁も一緒にぼろぼろ剥がれ落ちていくのが分かった。
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