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飛翔 5
目を開けるとまた薄暗闇だったけれど、無機質な白い天井が写った。
そして、次の瞬間、頭と身体の左側が重い痛みを発している事に気づく。
前開きの病衣の様なものを着ていて、左手は手首から肘までギプスで固定されていた。右手背からは点滴の管が伸びている。
点滴が抜けないように注意しながら頭に触ると、一部ガーゼのような物に触れた。
右足は動かせるけど、左足は痛くて何かに引っ張られている感じで全く動かせない。
人の足音と、懐中電灯の小さな光がゆらゆらと近づいてきて、春の寝ているベッドの天井を照らした。
「あ、気がついたのね!」
白衣を着た看護師が、日本語を喋った事で全身の力が抜けるほど安堵した。
「まだ頭ぼーっとする?」
まだ若い看護師が、心配そうに顔を覗きこんできた。
「いえ、なんともありません。ここは?」
「東京の病院よ。君、名前教えて貰える?運び込まれたとき意識なかったし、身元が分かるもの何も持ってなかったでしょ。おまけに裸足だし、連れてきてくれた人はいつの間にかいなくなるし…」
連れてきてくれた人と聞いて背中が強ばった。
「俺を連れてきたのって、どういう人ですか?」
「背の高いイケメンよ。こう、高そうな服をビッと着てて、上品そうな人。35くらいかしらね?あの人、知り合いなの?あなたが歩道で倒れてたから連れてきたって言ってたけど…」
孝市さんだ。恐らく間違いない。
他人のフリをして俺を置いて行ったってことは――。
俺はようやく孝市さん…向田の籠の中から逃れられたんだ。
「いえ、そんな人知りません」
俺はもう自由なんだ…。
好きなときに好きなところへ行けるし、会いたい人にもいつだって会える。
やりたくないことを無理矢理しなくてもいいし、夜を恐れることもない。
死んだように眠って、絶望の中目覚めるんじゃなくて、穏やかに微睡みながら眠って、美しい朝日や小鳥の囀りで目覚められる。
何でもない普通の生活が出来るのは、何て幸せなんだろう。
それに……。
「あ、そうだ。名前教えてくれる?」
「…椎名春です」
もう俺は向田春なんかじゃない。
椎名春に戻れる。
何の後ろめたさも、束縛もなく、紫音と向き合える。
愛してると言ってくれた紫音にちゃんと返事がしたい。
これまで言えなかった気持ちを、全部伝えたい。
その言葉は、別の相手に腐るほど使ったけれど、初めて心から言える。
その言葉を貰えて嬉しいと初めて感じさせてくれた紫音に、同じ言葉を伝えたい。
「あの、連絡したい所があるんですけど」
「親御さん?」
「親じゃないけど、大事な人です」
俺が急にいなくなったりしたから、きっと心配してる。
時計は23時を示していたけど、まだ起きているだろう。少しでも早く安心して貰いたい。
「分かったわ。電話のある所には連れていけないから、私がかわりに連絡しておくね」
お願いしますと唯一暗記している11桁の番号を伝えた。
***
次の日の朝、回診に回ってきた医師に、左手首と左脛、左踝の骨折で、全治3ヶ月と言われた。
脛は手術が必要で、腫れが引くまで牽引して、約1週間後に手術。入院期間は1ヶ月と言われた。
回復後のリハビリ次第で、これまで通りの生活も、運動もできるようになると言われてほっとする。
時速何キロ出てたかわからないが、走行中の車から飛び降りて、後遺症が残らない程度の怪我で済んだのだ。
不幸中の幸いと言ってもいいだろう。
頭蓋骨にもヒビが入っていたが、内部に損傷はなく、血腫が大きくならない限り心配はいらないらしい。
今朝までナースステーション向かいの個室だったが、少し遠い個室に移動した。大部屋でもよかったが、個室しか空いていなかった。
ベッドボードには、マジックで〔椎名春〕と書かれたラベルが付けられていて、改めて椎名と名乗れる事が嬉しくなった。
「ハル先輩…?」
ノックの後にすぐ控えめに呼び掛けられた。
時刻は面会時刻になったばかりの午前9時。ドアが少しずつ開いて、その姿を認めると胸が高鳴った。
紫音は頭と手足が包帯でぐるぐる巻きの俺を見て目を真ん丸にして驚くとすぐに枕元に駆け寄ってきた。
「来てくれたんだ…」
紫音の顔を見たら嬉しくて少しだけ声が震えた。
「ハル先輩大丈夫ですか!?あいつにやられたんですか!?俺がちゃんと側についていれば、こんなことにならなかったのに…。本当にごめんなさい!その…怪我の程度は?」
紫音の眉がハの字になって、心配ですと顔に書いてある。
紫音が昨日からしきりにもう心配いらない、大丈夫と言っていたのは、きっとあの男が社長を辞任することを知って…いや、恐らく紫音が何らかの方法でそうさせたからだったんだ。
怪我はちゃんと治る事を説明したら、紫音の顔が目に見えて安堵した表情に変わって、愛されているんだと改めて感じ入った。
「紫音、俺をあいつから奪い返してくれてありがとう」
紫音が昨日強気にそう言っていたのを真似て言うと、初めきょとんとしていた紫音の顔がすぐ真っ赤になった。
からかうつもりではなかったけど、そんな風に聞こえたかなと思ってごめんと言った。
「違います。俺が照れてるのは…その…ハル先輩を奪ったってことは、ハル先輩は俺の…ってことでいいのかな…とか思って…」
真っ赤な顔でたどたどしくそんな事を言う紫音が愛しい。
そんなの、当たり前なのに。
「そうだよ。俺は紫音を愛しているから」
紫音の顔がもっともっと赤くなって、口をパクパクさせて吃りながらハル先輩と言っている。
俺の言葉一つでこんなに喜んでくれるんだ…。
自分が本当に愛してる人に愛していると告げることができた感慨よりも、紫音が愛おしいという感情の方が強く沸き上がってきた。怪我さえしていなかったら、抱き締めたいくらいにいじらしい。
「俺、あいつに海外に連れて行かれそうになったんだ。もう俺を脅す材料はなかった筈なのに、色々俺の事貶めて、大人しくついて行くよう仕向けられた。俺はもう少しでその罠に嵌まる所だった」
紫音はさっきまで真っ赤だった顔を青くさせて絶句していた。
「でも、逃げ出した。無理矢理連れていくって言って車を止めてくれなかったから、動いてる車の中から外に飛び出したんだ。こんな俺でも、紫音が待っていてくれるって思ったから。紫音が俺に愛してるって何回も言ってくれたから。それが俺に逃げ出す力をくれたんだ。紫音、本当にありがとう」
紫音の顔はまたほんのり赤くなって、でもさっきみたいに慌てていなくて、熱い眼差しで見つめられた。
「ハル先輩、よかった…。いや、こんな酷い怪我して、全然良くないけど、でも、本当によかった…。ハル先輩、俺、ハル先輩を心から愛しています。ずっと大事にしますから、俺の恋人になってください」
紫音の熱い瞳を真っ直ぐ見つめて、深く頷いた。
「俺も、心から紫音を愛してる」
自分の心に正直になれることが嬉しくて、自然と顔が綻んだ。
紫音もつられたように笑顔になった。
優しい時間が流れた。
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