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飛翔 6
向田の所在は、探偵に調べさせても掴むことはできなかった。
きっと、偽名と偽装パスポートで出国したんだと思う。
と言うのは、毎日お見舞いに来てくれる紫音の弁だ。
もしそれが本当なら、あのまま連れていかれてたら、本当に永遠にあの男から逃れられなかっただろう。
それを考えると自然と身震いしてしまう。
あれからゆっくり、紫音がどうやって俺を向田から「奪って」くれたのかを聞いた。
長谷川さん、探偵の坂田という人、斗士に笹原も協力してくれたと言っていた。そして、向田の奥さんと父親も…。
向田の父からは、紫音を通じて何度も謝らせて欲しいと申し入れがあったが、毎回断った。
向田の父に罪はないことは分かっていたし、向田を社長の座から退けてくれたのもその人だ。
本来ならお礼をするべき相手なのかもしれないが、向田の血縁というだけで、そんな風に割りきることができなかった。
もう少し時が経てば、素直に謝罪を受け、普通にお礼も言えるのかもしれないが、今はまだ、向田の記憶が生々しすぎてとても無理だった。
向田の父親の計らいで、父さんの会社が向田製薬から独立することも決まり、それに伴い4月に両親も日本に帰って来れることになった。
向田に俺が何をされていたのかは、両親の耳には入らないようにして貰った。
あんな事を知られるのはやっぱり屈辱的だし、以前の親子関係ではいられなくなる気がしたのだ。
長谷川夫妻には知られてしまったが、口の堅い信用できる人達なので、心配はしていない。
二人で一度お見舞いに来てくれて、親の変わりに入院手続きや手術の書類にサインをしてくれた。
手続きが終わると奥さんは俺を抱き締めて辛かったねと泣いてくれた。
あれを知られていると思うと初めはいたたまれない気持ちしかなかったが、二人が心底案じてくれていた事が伝わってきて、一緒に少し泣いてしまった。
長谷川夫妻は両親と入れ替わりでまたドイツに転勤になるらしい。
ドイツでの生活が好きだから嬉しいと言ってくれたが、向田と俺のせいで生活を掻き回されたんだと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。でも、俺に謝られても余計に気を遣わせるだけだと思ったから、何も言えなかった。
斗士と笹原も学校帰りに千葉からわざわざお見舞いに来てくれた。
斗士は、しきりに痛い?大丈夫?と心配していて、笹原は表面上はツンツンしていたが、紫音に協力してくれてありがとうと告げると、別に僕は斗士くんの為にしただけだよと少し赤い顔でそっぽを向いた。
斗士は、やっぱり春には笑顔が似合うねと言ってくれて、喜んだのも束の間、あんなバカ(紫音の事らしい)やめて俺にしたら?と言われて、久しぶりに斗士のペースを思い出した。
斗士くんって無神経だねと笹原がむすっとした顔で言って、斗士がうるせーと言い返して、そんな二人のやり取りを見ていると、すごく平和な気がして言い争う二人をよそに一人和んだ。
***
手術も無事に終わり、今日は退院の日だ。
両親が戻ってくるまで帰る所のない俺に、紫音が自分の家に来るよう言ってくれた。
初めは遠慮したが、母親は単身赴任中の父の元に行っていて不在だから気を遣わなくていいということと、側にいてくれた方が安心できるからと言われて、お世話になることにした。
ちょうど3月の3週目、春休みに入る週で学校も休みだったのが幸いだった。
今日から4月に両親が帰ってくるまでの2週間、紫音の家で過ごすことになる。
「ハル先輩、松葉杖すごい上達しましたね」
お世話になった看護師や医師に挨拶して、エレベーターの中で着替え等の荷物を持った紫音にそう言われ、後2ヶ月間は相棒だからなと答えた。
この入院生活は、紫音に頼りっきりだった。一日も欠かさず見舞いに来てくれて、着替えや洗面道具を持ってきてくれたり、雑誌や漫画を差し入れてくれたり、話し相手になってくれた。
手術やリハビリなど辛い事もあったが、それでもこの1年数ヵ月に比べたらどうってことなかった。紫音が来てくれるのが楽しみで、幸せだなぁと実感する毎日だった。
「紫音、本当にありがとう。後2週間、またお世話になるけど、よろしくな」
エレベーターを降りる前にそう言うと、紫音が開のボタンを押しながらとても優しい目で此方を見て、少し恥ずかしそうにはいと頷いてくれた。
紫音があいつから俺を自由にしてくれた。
紫音が俺を愛してくれたから、今の俺があるんだ。
紫音には何度も何度もお礼を言ったけれど、そんなんじゃ足りない。
松葉杖なしでは動けない俺にできることはたかが知れているかもしれないが、この2週間で紫音にしてあげられることが何かあればいいな。
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