100 / 109
飛翔 7
二人で電車を乗り継いで、紫音の家まで帰った。
紫音がお昼ご飯に冷凍うどんを茹でてくれて、二人で食べていると、紫音が少し悔しそうに言った。
「ハル先輩、器用すぎ。もっと俺が色々してあげる予定だったのに…」
「いっぱいして貰ってるよ。ご飯だって作って貰ったし、ずっと荷物も持っててくれたし」
「俺の想像では、荷物じゃなくてハル先輩をお姫様抱っこで連れて帰って、うどんだってフーフーして食べさせたかったのに…」
紫音が真面目な顔でそんな事を言うので思わず吹き出してしまう。
「だって、俺右利きだから」
笑いながら言うと、紫音が残念そうにそうですよねと肩を落とした。そんなに落ち込むこと?
「こんな機会でもなきゃ、ハル先輩にご飯食べさせてあげることなんて出来ないじゃないですか。あ、こんな怪我もう二度として欲しくはないですけどね」
「じゃあ、食べさせてよ」
「え?」
きっと、1口食べさせれば満足するんだろ。恋人同士がよくドラマなんかでやってるよな。あーいうのに紫音は憧れているんだろう。
そんなことくらいで喜んでくれるならお安いご用だ。
ポカンとしている紫音に向かってアーンと口を開けて見せると、ようやく理解したらしい紫音が頬を染めてドギマギとうどんを掴んだ箸を向けてきた。
パクリとそれを口に入れて、うどんをチュルンと吸った。自分で食べる様に上手く顔の向きが調節できず、顎にうどんから滴ったつゆがついて気持ち悪い。
もう満足だろうと顎を拭って自分の箸をとろうとしたら、紫音がまたその箸でうどんを掬って口元に持ってきた。
「まだ?」
「まだです」
赤い顔の紫音は譲るつもりはないと箸を戻さないので、またチュルンと食べた。
「ここ、汚れるんだけど…」
「舐めてあげましょうか?」
「は?」
驚いて紫音を見返すと、いつの間にそんな空気になっていたのか、紫音の瞳が熱を帯びていて、欲情してるんだとはっきり分かった。
嫌じゃない。嫌じゃないのに物凄く気が動転した。
1ヶ月前に確かに俺達は恋人同士になった。
なったけれど、ずっと入院中で、斗士達以外にも恭哉も頻繁に来てくれていたし、紫音の友人の波田野が一緒に来ることもあったので、二人きりの時間があったとしても恋人らしい事は何もしていなかった。それどころか甘い雰囲気になったことすら一度もない。
それが、突然こんな甘いのを通り越した濃厚な空気になったので、どうしたらいいのかわからない。
俺はあの男に性急なセックスばかり教えられたけど、こんな空気の時どうしたらいいかなんて知らない。前紫音と会っていた時は、両想いだったけれど、後ろめたくて恋人には到底なれなかった。
俺、ちゃんと恋愛するのは、正真正銘初めてなんだ…。
恥ずかしくなって目を逸らすと、ハル先輩ほんとかわいーと紫音の逆上せた様な声が聞こえて、頬が熱くなった。
俺は男だからかわいくはないだろう。でも、そう言う紫音の声が確かに熱を持っていて…。
カタンと紫音が箸を置く音と、身じろぎする音がして、身体が緊張に強ばった。
どうしよう…。
両肩に手を置かれて見上げると、椅子に座る春の目の前に紫音が立っていて、熱い視線とかちあうとすぐに紫音の顔がおりてきた。
優しいけれど、熱の篭った濃厚な口付けで、息が上がってしまう。
酸欠で少し涙目になっていたら、熱に浮かされた声でかわいいとまた言われた。
「俺、ずっとハル先輩とキスしたかった。我慢してたんです」
欲情に濡れた瞳でそんな事を言われると、こっちまで引き摺られそうになる。
我慢してたなんて、そんな風に全然見えなかった。俺が鈍感すぎただけかな…。
そんなことを考えているとまた紫音に唇を塞がれて、思考が停止する。
紫音の舌の動きだけに、頭を支配されて、それを追うことしか出来ない。絡められても上手く応えられない。散々教えられたのに…。
「…ふ…んん…んっ」
紫音の舌に翻弄されて、鼻を抜ける様な声が出てしまうのがとても恥ずかしい。
その声に煽られたみたいに紫音の手が胸の辺りを這った。
さわさわと撫でていたそれが、服の上から指で突起を刺激した途端、電流が走ったみたいにビクンと身体が跳ねた。
一旦口を離した紫音がニッコリ笑って、また口付けながらそこを指で捏ねられて、その度に身体がビクビク跳ねる。
乳首を少し触られてるだけでこんな風になってしまう身体なんて、恥ずかしくて堪らない。
これ以上されたら、どうなってしまうんだろう。
次の瞬間、自分が浅ましく乱れてイきまくる姿が思い出され、熱を帯びていた身体が急速に冷めていく。
恐い。あの姿を紫音に知られるのが恐い。幻滅されて嫌われるかもしれない。あいつにそうされたみたいにとんだ淫乱だって笑われるかもしれない。
嫌だ――。
胸の上の紫音の腕を強く掴んで口付けから逃れるように顔を背けた。
「ハル先輩?」
「ごめん紫音……」
なんと言ったらいいのかわからない。紫音を拒絶したい訳ではないのに…。
「ハル先輩、俺が恐いですか?」
首を横に振る。紫音が恐い訳ない。
そうじゃなくて、恐いのは――。
「じゃあ、俺のせいで嫌な事思い出しちゃいましたか?」
また首を振った。思い出したのは、紫音のせいじゃなくて、俺の身体の反応のせいで…。
「ごめんなさい。ハル先輩があんまりかわいいから、我慢できなくて…。こういうのはゆっくりって思ってたのに、ハル先輩を前にすると俺ほんと駄目で…。もうしませんから、そんな顔しないで」
違う。違う。紫音とそうなりたくない訳じゃない。本心ではいつかは身も心も紫音の物になりたい。あいつの手垢を消して欲しい。
でも、俺は俺の身体が――。
「ハル先輩、俺もう恐いことしないから…」
「違う…。紫音が恐いんじゃなくて、俺の身体が敏感すぎるから…感じすぎて紫音に引かれるのが、恐いんだ…」
「え……。感じすぎるって…」
背中は凍りついてるのに、顔にはカーッと血が上った。なんて恥ずかしい事を言ってしまったんだろう。
紫音のこの反応は、きっと引いてるんだ…。
「ハル先輩…」
恐る恐る視線を上げると、予想外に紫音の真っ赤な顔が目に入った。
軽蔑されて…ない?
「引く訳ないじゃないですか。寧ろ俺、さっき自分で言ったばっかなのに、また我慢できなくなっちゃいそうなんですけど…」
「…俺の事軽蔑しないのか?」
「だから、する筈ないです。さっきもハル先輩が感じてくれてるのが、俺すごく嬉しかったんですから」
「でも、あんな程度じゃなくなるかも…」
自分の乱れ様はあんなんじゃない。頭が正常に働かなくなって、口からは勝手に高くて恥ずかしい声が出て、腰も勝手にビクビク動き始めて…。
「ハル先輩、あいつのこと考えてる?」
紫音が目を細めて少し不機嫌な調子で言った。
あいつの事なんて考えてるつもりはないけど、セックスの時の自分の姿を思い出すとき、相手は必ずあの男で…。
それはあいつを考えていると言うのだろうか…。
「もうあいつとしたことは全部俺が忘れさせてもいいですか?」
「え…?」
「俺の事も、こういうのも嫌じゃないなら、ハル先輩の感じる姿を俺に見せて」
紫音の言葉の甘い響きに、思わずこくんと頷いていた。
紫音を信じたい。
恋人なら、いつかは紫音と抱き合う事になるんだから。
紫音の前であの姿を見せられる様になったら、紫音がそんな俺でも受け入れてくれるなら、俺は少しは自分に自信が持てるかもしれない。
手を取られて立ち上がると、すぐに膝裏に手を入れられて横抱きにされた。
さっきそんな事を言っていたけれど、まさか本当に抱えられるなんて思わなかった。
「紫音!俺、重いから下ろせよ!」
「全然重くないですよ。ハル先輩はもう少し食べた方がいいです」
紫音は言葉の通り余裕の表情で、ついに歩き始めた。
「ちょっ…と!」
「しっかり掴まってて下さいね」
言われた通り、自由な右手を紫音の首に回してぎゅっとしがみついた。
こうやって抱えられるのは初めてじゃない。あの男もよく俺をこうして抱えては物のようにベッドに放り投げた。
あいつは背が高いから、いつも運ばれる途中で振り落とされそうで恐かった。紫音だってあいつと同じくらい身長があるのに、 全然恐くない。
「ハル先輩、また。あいつの事考えてる。あいつにも、こうされたんだ?」
紫音の目が鋭くなる。俺の考えてる事がなんでわかるんだろう?
「…でも、こんな優しくなかった」
どうせバレてるならと正直に答えると、紫音の目は更に鋭さを増して、誤魔化せばよかったと後悔した。あの男の事を考えていた事も、こうして抱えられた事があることもどっちも肯定する言い方だったので、紫音にとっては面白くないだろう。
それでも紫音は優しかった。歩くペースはゆっくりだし、あまり揺れない様に気を遣ってくれているのがわかる。
「…ハル先輩からあいつの記憶だけ無くなればいいのに」
紫音が思わず本音を漏らすようにポツリと呟いて、いたたまれなくなった。
そうなれたらどんなにいいだろう。でも、そんな都合のいいことできる筈がない。すごく、物凄く嫌だけど、あいつとの事があって今の俺がいて、今の紫音との関係があると思うから。
「ごめん…」
こんな俺でごめん。綺麗じゃない俺で。
それしか言えない。過去は変えられないことは、自分が一番、痛いくらいに知っている。
「あ…ごめんなさい!俺、ハル先輩を責めるつもりは全然なくて…。ハル先輩の過去も現在も未来も、全部欲しいって思っちゃったんです。俺、凄い嫉妬深くて、独占欲も強いみたいで…。でも、この気持ちは自分でも止められないんです」
紫音は、こんな俺を嫌悪してる訳じゃなくて、ただあいつに嫉妬してただけ…?
紫音は申し訳なさそうにしているけど、俺は紫音になら独占されてもべつにいい。
「過去はあげられないけど、今とこれからは紫音にあげたいって俺は思ってるけど…」
思い切って言って、紫音の顔を窺うように見上げると、紫音は真顔で固まっていた。
「あ…。俺、もう下りるよ!」
紫音が立っているのはドアの前で、きっとこのドアの先が目的地だ。ここからなら片足で部屋に入ることもできるし、何よりもあんな事を言った自分が恥ずかしすぎる。紫音も無言だし、なんかいたたまれない。無理に受け入れろとは言わないが、せめて誂うくらいして欲しい。
下ろせと少し身じろぎしたが紫音の手は緩まなくて、無言のままドアを開けた。
ともだちにシェアしよう!