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飛翔 12
次の日、学校の近くに即入居できる部屋はすぐに見つかった。そんなに新しくはないけれど、陽当たりのいいワンルームだ。
安いアパートでいいと言ったが、両親にそれでは心配だからと言われてオートロックのマンションになった。男子高校生に心配も何もないだろうと言いたかったが、さすがに思い当たる節があったので、何も言えなかった。
父さんに預けられていた通帳は、向田の父から紫音を通して返して貰っていたので、昨日既にそれを父さんに返してある。
マンションの家賃が高いのを気にしていたら、あのお金は春の為に貯金しておいたお金で、そこから支払うから気にするなと父さんが言ってくれた。
不動産屋を出たその足で市役所に行って、向田との養子縁組解消の手続きをしたいと相談したが、最低でも3年は離れていないと、相手の同意なしに解消はできないと言われてしまった。
かなり落ち込んだけど、父さんが学校には事情を説明してくれて、新学期からは「椎名春」として学校に通えることになったので、戸籍の事は取り合えず考えないことにした。
帰りに携帯を買って貰って、ようやく長い一日が終わった。
家に帰り着くなり一番に紫音に電話をした。
紫音はこれでいつでもハル先輩と繋がれると喜んでくれて、明日会う約束をした。1日しか離れていないのに、明日紫音に会えると思うとそわそわした。
ギプスを袋で覆ってシャワーを浴びて、就寝するために部屋に入った。
ここは、正真正銘自分の部屋だが、思い出したくない嫌な記憶が思い出されるので、正直ここにはいたくない。
でも、部屋で寝たくないなんて言って、両親を困らせることも心配をかけることも出来ず、何も考えるなと自分に言い聞かせてベッドに潜り込んだ。
紫音の事を考えよう。明日になれば紫音に会える。
もうあいつはやってこない。怖いことも嫌なことも何も起こらないんだから…。
***
「春、起きて」
その声に目を開けると、目の前には二度と見たくないと思っていた男がいた。
すぐにパニックを起こしそうになったが、冷静な自分が、「大丈夫。これはただの夢だ」と言った。
そうだ。ただの夢なんだから、恐くない。
そう言い聞かせたけれど、男の手と舌が身体を這う感触がリアルで、夢だと分かっていても背筋が凍った。
早く覚めてくれ…。
場所は、千葉のマンションの広いベッドの上だ。
俺は裸に真っ赤な首輪だけを嵌められていて、左手足は現実に忠実にギプスに覆われていた。
「春、見て。これ、淫乱な春が好きな玩具」
男が持っているのは、尿道を犯す道具だ。
「欲しい?」
「欲しくない!そんなの好きじゃない!」
「嘘だ。春はこれが好きだろ。これを入れられながら、俺のおちんちんを後ろに入れられるのが、最高に好きだろ?春の身体はいやらしいからね」
「うるさい!好きじゃない!お前なんかもう恐くない!ただの夢なんだから!早く消えろ!消えろ!消えろ!……」
なんで醒めてくれないんだ。
こんなに叫んでるのに。暴れてるのに。
早く目覚めて!
「痛ッ!」
突然下半身に痛みを感じたかと思えば、さっき見せられた道具がもうそこに入っていて、男が楽しそうに抜き挿ししていた。
その度に鋭い痛みを感じる。
何で!?
何でこんなにリアルに痛みを感じるの?
「あ…っ」
そして次の瞬間には、もう男に身体を繋げられて揺さぶられていた。
嫌!
なんで!?どうして…!
「ほら気持ちいいだろ?春は俺とするセックスが一番好きなんだ。あんなガキとの普通のセックスじゃ、本当は満足してないだろ?」
「違う!好きじゃ…ないッ!こんなの、イヤだ!」
嫌だ!助けて!
俺はこんなの嫌いだ!
助けて!紫音!
「助けなんか来ないよ。忘れたの?春は一生俺の物だろ。約束したじゃないか。ずっと一緒だって…」
「イヤだ!違う!俺はお前の物じゃない!紫音、紫音助けて!お願い消えて!」
「春はこれが夢だと思ってるみたいだけど、本当にそうかな?どっちが夢だろうね?」
とっちが…?
男の口が裂けるくらいに曲がって、はははと不気味に笑った。
血の気が一気にひいて、呼吸もままならない。苦しい……。
男は尚もおかしそうに笑い続けて、その笑い声だけを耳に残して、目の前が突然ブラックアウトした。
***
一瞬、自分が目を開けているのか閉じているのかわからなかった。
けど、窓から漏れる月明かりを認識して、開けているんだとわかった。
運動した後みたいにゼイゼイと息が上がっていて、Tシャツの背中はびっしょり濡れている。
手探りでシーリングライトのリモコンを探り当て、電気を点けた。
眩しさに目が眩んで、これが現実と必死に自分に言い聞かせる。
枕元には買って貰ったばかりの携帯があって、記憶だってちゃんと繋がっている。
なのに、それなのに、怖くて堪らない。
これは本当に現実?
ガタガタ震えながら、携帯を操作して、発信履歴から電話をかけた。
お願い出て。お願い…。
『もしもし、ハル先輩?』
数回のコールで、寝惚けた様な紫音の声が受話器から聞こえた。少しだけほっとしたけど、まだ恐怖感はなくならない。
何か喋らないといけないのに、歯がカタカタ震えて、言葉が出てこない。
『ハル先輩?…何かあった!?ハル先輩!?』
「っ…しおん……」
辛うじて出た声はこれだけだった。
怖いよ紫音。
もうあそこには戻りたくない。
でも、もしあれが現実で、こっちが夢だったら?
また突然真っ暗闇になったら?
怖いよ…。
『ハル先輩!?…もしかして、怖い夢でも見た?そうなんですね?そうだとしたら、大丈夫。ただの夢です。もうあいつは来ません。大丈夫。大丈夫…』
紫音は落ち着かせるようにゆっくり大丈夫と何度も言ってくれた。
「…ゆめで、いいの?」
『そう。あいつは夢です。ただの夢。今の春には俺がついてるから。何も怖いことは起こらないよ。大丈夫。大丈夫だから…』
夢。夢。あれはただの夢。
これが現実。俺はあいつから解放されて、紫音がいてくれる。それが現実。大丈夫。大丈夫。
紫音が言ってくれてるみたいに心の中で自分でも大丈夫と唱えると、少しずつ気持ちが落ち着いて、震えも止まった。
「…ありがとう。もう、大丈夫」
『まだ声に力がない。俺、これからそっちに行こうか?』
「ううん、大丈夫。明日会えるから、大丈夫」
『遠慮しないでくださいね?俺だって春の傍にいてあげたいんだから』
「ありがとう。大丈夫。父さん達に心配かけるから…」
『そっか。こんな時間に俺が行ったら、びっくりしますよね。じゃあ、明日の朝迎えに行きますからね』
「うん…待ってる」
紫音は、寝るの怖いでしょうからとずっと電話を切らないで子守唄の様にもう大丈夫だよ、とか、俺がついてるよと言い続けてくれて、あの夢で冷えた心も身体もぽかぽかしてきて、自然と瞼が落ちてきた。
眠りにつく直前に、紫音にありがとうと告げた。もう今夜は怖い夢は見ないだろうと思った。
***
夜中に言った通りに紫音は朝から家に来てくれた。
午前中はリハビリに行く予定だけど、母さんが病院まで車で送ってくれるから、10時の予約までまだ時間があった。
「紫音、昨日は夜中にごめんな。寝不足だろ?」
部屋に招き入れた紫音に言う。紫音は寝不足って顔じゃなかったけど、あんな時間に起こされたら疲れるよな…。
あの時は気が動転して、ともかく紫音の声が聞きたくて、紫音の迷惑とか何も考えられなかった。
「全然大丈夫ですよ。何時でも電話してきて下さい!俺、ハル先輩に頼って貰えたんだって思うとちょっと嬉しかったんてすから」
「うん、ありがとう」
紫音は本当に優しい。
俺は紫音に頼りっきりだ。よしかかり過ぎて紫音の負担にならないようにしなきゃいけない。
…そう思っていたのに、その日の夜もまたあいつの夢を見て、いてもたってもいられなくなって紫音に電話をした。
紫音は昨夜同様に優しく大丈夫だと言ってくれて、また眠りにつかせてくれた。
約束はしていなかったけど次の日の朝も紫音は来てくれた。
「紫音、本当ごめん…」
「謝らないでくださいよ。言ったでしょ?俺は頼られるのが嬉しいって。でも、何で突然…。例え夢でもハル先輩を苦しめたくないのに。…何かきっかけとか、思い当たりますか?」
きっかけは…。
「…たぶん、この部屋」
「部屋?」
「ここでもあいつに……やられてたから、思い出すのかもしれない」
紫音にあいつの事を話すのは、紫音に対する裏切りのような気がして後ろめたい気持ちにさせられる。
紫音をそっと窺うと、顔を強ばらせて険しい表情をしていたので、思わずごめんと謝った。
「…俺は、未だにハル先輩を苦しめるあいつが憎くて堪らないだけです。早く俺があんな奴の事は全部忘れさせたいけど、そう簡単にはいかないですよね…。ともかく、ハル先輩はここにいちゃいけない。春休みの間はまた俺の家に泊まって下さい!」
「でも……」
1年半離れ離れだったせいか、母さんはこれまでにないくらい俺にベッタリで、俺に夕飯を作れるのが嬉しいと言っていた。来週にはここを離れるので、今は母のしたいようにさせてやりたい。傍にいてあげたいのだ。
「…そうですよね。再開して1週間でまた離れなきゃいけないんですもんね…。じゃあ、俺がここに泊まります」
正直ここで一人で寝るのは怖い。2日連続したので、またあの夢を見るんじゃないかと思うと、今日はとても眠れそうになかった。でも、紫音が傍にいてくれたら、あんな夢見ないかもしれない。
例え見たとしても、目覚めたときに紫音がいてくれたら、怖くない。
「…紫音…いいのか?」
「ハル先輩の傍にいたいんです」
紫音がそう言って優しくキスをしてくれた。
もう少しだけ。春休みの間だけ、紫音に甘えてもいいよな…?
新学期が始まったら、もう紫音の邪魔にならないようにするから、もう少しだけ…。
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