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第10話

俺は、あまり眠る事ができないまま朝を迎えた。 髪型などの身だしなみには、立場上いつも気をつけてはいるけれど、今日はいつも以上に念入りに整えた。 カフスボタンやタイピンもいつも以上にこだわった。 まるで、初めてのデートが待ち遠しくて仕方のない学生のようで、玄関の鏡に映る自分の姿を見て苦笑した。 何をしているのだろうと思いながら、大きな溜息をつき、部屋を出た。 会社に着くと、折戸が俺を見てクスクスと笑った。 俺は照れ隠しに一つ咳払いをした。 「今日はまた随分と気合いが入ってますね、社長。」 「そうかな?」 「えぇ。」 悔しいけれど、折戸には全てがお見通しだ。 これから起こる事への戸惑い… しかし、そこには楽しみだという気持ちも混在している。 俺は社長室に入るとスーツをハンガーにかけて机に向かい、仕事に取りかかった。 そのまま集中を途切れさせる事なく、仕事に励んだ。 俺の集中を解いたのは、扉のノック音だ。 折戸のタイミングはいつも絶妙だ。 「どうぞ。」 その言葉と同時に扉が開き、折戸が入ってきた。 「失礼します。仕事は、捗ってますか?」 「なんとかね。」 「その様子だと、行けそうですね。」 折戸からスーツを受け取り羽織った。 そして、俺たちはあのカフェへ向かった。 まだ会話すらした事のない彼の元へ… 社長に就任してからというもの、正面玄関から外へ出る機会などはなかった。 駐車場から社長室のある最上階までは直通故、正面玄関から出社する必要はない。 俺の姿を見た社員は、さぞ驚いた事だろう。 自分でいうのもおかしな話ではあるが、清掃の行き届いた明るく綺麗なエントランスだ。 社員の表情も皆イキイキとしている。 信号を渡り、すぐ目の前の店内に入ると、気持ちの良さが緊張感へと変わった。 もちろん、行動や表情に出る事はない。 何事も卒なく… そのように自分を殺して生きてきた。 奥から新見君が出てきて、窓際の席へと案内された。 日当たりも良く、店内がよく見渡せる席だ。 去り際に新見君が軽くウィンクをして見せた。 「颯斗くんが頑張れと言っていますよ、総一郎。」 緊張で手が若干汗ばんでいる。 幼い頃に習っていたバイオリンの発表会の時も、生徒会長として壇上に上がった時も、会合や商談、パーティの時も緊張をする事などなかった。 緊張感には強いタイプであると思っていた。 「大丈夫ですか?手が震えていますよ。」 メニューを握る手が、小刻みに震えているのが分かった。 俺は、どうしてしまったというのだろう… 感情を隠す事ができない… 店内を見渡すと、丁度奥から彼が出てきた。 当然の事ながら、彼を近くで見る事は初めてだ。 実物の彼は写真の印象とは大分異なっていた。

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