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第22話

気配に気づき、顔を上げるといつの間にか部屋に戻った彼と目が合い、咄嗟にスマートフォンを後ろに隠した。 「残念だよ。もう少し、君と共に過ごしていたかったのだけれど、仕事に行かなければならなくなってしまってね。君はもう少しゆっくりとしてから帰るとよいよ。机のメモ用紙に連絡先を書いておいたのでね、また連絡を貰えると嬉しい。」 「は?連絡なんてするわけないだろ。」 「それは困ったね…随分と嫌われてしまったようだね。」 「黙れ。…つかお前、何者だ。」 「今更になって自己紹介かい?…けれど、君の言う通り、名乗るのが筋というものかもしれないね。…俺は八神総一郎 。君は?」 それは、俺という存在が彼に認識された瞬間だった。 彼の名前など、とっくに知っている。 わざわざ聞くまでもない。 「…黒木蹴人だ。」 蹴人… これでやっと、彼を名前で呼ぶ事ができる。 「そう。君は、蹴人というのだね。」 「…」 「とても、素敵な名前だね。」 「…」 いきなり呼び捨てだなんて少し図々しい気もしたけれど、仕方がない。 その名前を、呼びたくて仕方がなかったのだから… しかし、当然の事ながら蹴人からの反応はない。 「君は、これっきりにするつもりなのだろうけれど、俺は君との関係を終わらせるつもりはないよ。その事は、よく覚えておいてね。」 ネクタイを拾いながら言う。 帰りたくなどない… まだ側に居たい… 「冗談じゃない。大体、よくそんな事が言えたものだな。」 「事後報告になってしまうのだけれど、連絡先は、君がシャワーを浴びている間に調べさせてもらったよ。とても教えてもらえそうな雰囲気ではなかったのでね。…これで、冗談ではないという事の証明になったかい?」 後ろ手に握ったままであった彼のスマートフォンを見せた。 俺を睨み付ける表情すらも愛おしい。 「ッ…お前、自分がなにしてるか分かってるのか!!」 「マナー違反…という事になるのだろうね。けれど、安心してもらって構わないよ、連絡先以外、見てはいないからね。」 「そういう問題じゃっ…」 「ふふ、少し緊張したよ。このような卑屈な事をしたのは生まれて初めてなのでね。…俺は、マナー違反を侵してまでも、君を断ち切りたくはないのだよ。…蹴人、君が連絡をしてくれなかったとしても、俺達はまた会う事になる。俺はその日を、楽しみにしているよ。」 ゆっくりと蹴人に近づきスマートフォンを手渡した。 そして、顎を軽く持ち上げ、キスをした。 ずっと願っていた。 唇を奪いたいと… キスでさえも同意なく奪った。 願わくば、その心も… いつか必ず… そのような事を思いながら部屋を出た。

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