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第28話

俺は大切な商談を目前に仕事に追われている。 忙しい中でも、毎日のように蹴人に電話をした。 不機嫌ながらも、電話に出てくれる事が嬉しくて仕方がなかった。 蹴人は、俺の生活に必要不可欠な存在となっている。 俺は、土曜日の蹴人との約束を自分へのご褒美として考え、忙しい日々を過ごしていた。 そして今日、無事に商談を終える事ができた。 しかし、俺にとっての本番は実を言えば明日… 明日は、準備万端で迎えたいところだったのだけれど、少し無理が祟ったらしい。 プランを立てる余裕などはなく眠りについた。 翌朝、俺は鳴り響く着信音で目が覚めた。 サイドテーブルに手を伸ばし、画面を見ると、着信の相手は折戸だった。 嫌な予感が頭を過る。 休日の折戸からの着信… 良い事である筈がない。 気づかないフリをしたいところだけれど、急用の可能性もある。 仕事の関係の電話ならば尚更だ。 俺は仕方なくスマートフォンを手に取った。 内容を簡単に噛み砕くとこうなる。 ・至急、出張の仕度をせよ。 ・エアチケットは手配済みである。 ・迎えを待て。 ・詳細は車内にて。 折戸は要点だけ述べて電話を切った。 あまりにも急な事だ。 キャリーケースをクローゼットから引き出し、荷物を詰めた。 支度は慣れたものだ。 最悪、パソコンさえあればなんとかなる。 出張の際、パソコンは手荷物として持ち歩く事としている。 向かう場所が国外であった場合、荷物を預けてしまうと事故などで、手元に戻らない可能性があるからだ。 滅多にない事ではあるが、日本程の正確さや丁寧さはないという事だ。 折戸は30分とかからぬ内に迎えに来た。 急いでくださいと言わんばかりに腕を掴まれ、車に乗り込んだ。 車内では、折戸が早口で概要を述べた。 あの人からの呼び出しで至急ロシアへ飛ぶ事になった。 飛行機に乗って現地に着くと、すぐに俺の周りは慌ただしくなった。 蹴人の事が頭によぎったのだけれど、すぐにそれどころではなくなった。 会合、接待、パーティ… 秒単位に目まぐるしく連れ回される。 特に強いわけでもないお酒を飲み、愛想笑いを浮かべ、母国語を忘れるほど外国語を口にした。 なによりもあの人… 実父である、八神燿一郎(やがみよういちろう)と顔を合わせなければならないという事が、俺になによりも酷いダメージを与えた。 一瞬たりとも気が抜けない。 常に緊張した状態だ。 気を抜けば何を言われるか… いや、俺に無関心なあの人は、何も言わないだろう。 ただ、あの冷ややかな瞳で見られるだけだ。 突き刺さるような瞳… 俺は、あの目が苦手だ。 生まれてからずっと向けられてきた。 あの目は、我が子を見る目ではない。 母の事はとても愛していたけれど、父の事は好意的に見る事ができなかった。 憎しみすらも抱くようになったのは、母が亡くなった時だ。 憎しみなどという醜い感情を抱きたくはなかった。 けれど、俺は幼くしてその感情を知る事となった。 その感情が実父に向けられたものであったなど、笑い話にもならない。 まるで、民話集であるグリム童話のような残酷な世界だ。 そのような相手と顔をつき合わす環境下に置かれた今、俺はとても不安定だった。

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