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第3話

でも、結局俺は逃げる事も出来ないまま八神の側に居る。 八神のモノになるわけでもなく、認めたくない気持ちを引きずりながら、ただ側に居る。 そんなどっち付かずの自分に一番腹が立った。 俺は、着替えを済ませてバイト着を鞄に突っ込んで休憩室を出た。 そして、イラつきに任せて乱暴に扉を閉めた。 「おい、黒木。」 声がした方を見ると、真っ白なコックコートを着て、腕を組んで壁に凭れ掛かって立っているキッチン担当の渡瀬さんと目が合った。 180㎝以上ある颯斗よりもデカい長身と鋭い目、それだけでも十分怖いのに、そこに低い声もプラスされたらお手上げだ。 「げ、渡瀬さん…」 「げ、じゃねぇ。イラついてんのは構わなねぇが、店は壊すな。…それだけだ。お疲れ。」 渡瀬さんは無愛想にそれだけ言うと、すれ違いざまに俺の頭を軽く叩いた。 正直、渡瀬さんは怖い… 強面だし、声低いし、何考えてるのか分からない人だ。 でも、渡瀬さんは少し不器用なだけで多分いい人だと思う。 頭を叩かれた事で、イライラした気持ちが少し緩んだ気がした。 「ったく、なにしてるんだか…」 どうしようもない自分に思わず苦笑した。 ウダウダ考えていてもキリがない。 そもそも簡単に答えなんて出るわけがない。 こんな問題にぶち当たるのは初めてで、解き方すら分からないからだ。 でも、俺が八神から離れたとして、その後の八神の行動なんてものはたかが知れている。 自惚れかもしれないが、多分八神はどこまででも追いかけてくる。 八神はそういうヤツだ。 強引に追いかけて、甘やかして、キスして、触って… そうやって今の状態まで漕ぎ着けたようなヤツだ。 離れようなんてそもそも大きな間違いで、実際俺も本気で逃げたいなんて思っていないのかもしれない。 そんな風に思ってる自分が受け入れるのが怖いだけだ。 人と深く関わるのは怖い事だ。 だから、今迄一定の距離感を保って、特定の相手を作らないようにして避けてきた。 いつからこんなに一人で居る事が落ち着かなくなったのかが分からない。 今の俺は、酷くナーバスだ。 こんなくだらない事しか考えられない。 店を出てトボトボと歩き始めた。 外は、少し肌寒く、ビルから漏れた灯りや、街灯が灯っていて夜の顔を覗かせていた。 「蹴人。」 俺は、幻聴が聞こえるくらい重症らしい。 その幻聴は、八神のあの無駄に甘い声に似ていた。 「…」 俺は幻聴を振り切るように自然と早足になった。 足音が追ってくるのが分かった。 そして、グイッと手首掴まれた。 わざわざ振り返る必要なんてなかった。 長くてスラッとした指とか、触れる感覚とか、温度とか… 俺を散々甘やかしている手に間違いなかった。 「行かないで…ね?蹴人。」 八神という男は、こういうヤツだ。 こうやって甘い声を出して俺を惑わせる。 「なんでこんなところに居るんだ…」 俺の計算が正しければ、八神の帰国は明日の筈だ。 だから、八神がココに居る訳がない。 思わず問い掛けてしまっても無理はないと思う。 「もう一泊して帰る予定だったのだけれど、早く君に会いたくなってしまってね。今日中に帰国できる便を探して帰国したのだよ。」 俺の問いに真面目に答えるところが、いかにも八神らしい。 「お前、バカなのか?」 「仕事が終わったのならば、君が優先だからね。当然の行動だよ。…それに、何よりも俺が君に会いたかった…」 「…ッ…」 「ただいま、蹴人。」 「…」 二週間ぶりの八神の声は、やっぱり甘くて… あまりに甘すぎて、鼻の奥がツンとした。 「蹴人、こちらを向いて?」 「嫌だ…」 「顔を見せて?」 「嫌だ…」 「ふふ、嫌々ばかりだね。可愛らしい。」 「なんでそうなる…」 見せれるわけがない。 多分、今の俺は酷く情けない顔をしてるに決まっている。 だから、絶対に見られたくなかった。 「蹴人、君の顔を見たくて早く帰ってきたのだよ…ねぇ、君の顔を見せて?」 淋しそうな声をされたら、嫌でも振り返りたくなる。 「…黙れ。」 「強引されたいのかい?…きっと、強引に向かせてしまった方が簡単なのだろうね。」 八神の言っている意味は俺が一番理解している。 でも、俺は素直に可愛くなんて出来ない… そう思う度に俺は追い詰められて、頭が痛くなった。 「勝手に、すればいいだろ…」 「そうだね。けれど、俺は敢えて難しい方を選ぶ事にするよ。君が自らの意思で振り返ってくれた方が、きっと俺は嬉しい筈だから…」 「…ッ…」 八神はズルいヤツだ。 そんな風に言われたらもう振り返るしかない。 俺が振り返ると、すぐに目が合って、八神はバカみたいに嬉しそうに笑った。 「ただいま、蹴人。」 そして、もう一度俺にそう言った。

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