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第30話
でも、折戸さんが言っていた話は…
俺は分からない事だらけだった。
「折戸さんが来た。」
「折戸?…」
「あぁ。急に俺の家に来て、お前が君島さんの家族と会うから、今止めないとお前が結婚する事になるって言っわれた。」
「…折戸が蹴人の家に?…折戸が…ね。まだ俺も君の家を知らないというのに…」
「調べたらしい。…あと、お前が仕事人間になりすぎて困るって言われた。」
「仕事?…君とあのような事になってしまって、仕事など手につくわけがないじゃないか。」
「は?」
「毎日のように折戸に怒られていたよ。違う書類にサインをしてしまったり、会議中に上の空になってしまったりと、ミスが目立ってね。」
「…じゃあ折戸さんが嘘ついてたって事か?」
「おそらくは、そういう事になるね。」
「…クソ、やられた…」
颯斗にも折戸さんにも君島さんにも…
悔しい…
「まさか、折戸が俺の目を盗んでそのような事をしていたとは…」
「明日、君島さんの家族と会うのか?」
「その件は解決済みだよ。明日は、由莉亜がフランスに帰ると言うのでね、見送りに行く予定だよ。」
「フランス?」
「由莉亜は今、フランスで恋人と住んでいてね、ピアノのリサイタルを日本で行う為にこちらへ帰ってきていたのだよ。」
「なるほど。」
「由莉亜はピアニストでね、今回の演奏も相変わらず素晴らしかったよ。今度日本でリサイタルがある時は、蹴人も連れて行ってあげるよ。」
「いや、遠慮しとく。ピアノなんて間違いなく寝る。」
「…では止めておこう。君の寝顔は俺だけのものだからね。」
「だから、頭悪い事言うな。」
「君の事ならば、俺はいくらでも馬鹿になれるよ。」
「…バカ。」
「うん、そうだよ…。俺はね、君の事でならばいくらでも馬鹿になれる。」
俺はいろんなものに振り回されていただけだった。
颯斗に、折戸さんに、君島さん…
八神…
そして俺自身…
振り回されて同じところを行ったり来たりしていた。
そんな俺の背中を押したのは、折戸さんだ。
でも、今俺がこうして八神の隣に居るのは俺が選んだ事だ。
あのまま腐っているという選択肢もあった。
いや、あの時の俺にはその選択肢しかなかった。
その選択肢を真っ向から否定したのが折戸さんだった。
八方塞がりの選択肢を上書きしたのも折戸さんで、その選択肢は俺が後悔しない為のものだった。
「ぶぇっくしっ!」
汗が冷えて急に寒くなったせいかくしゃみが出た。
唐突で我慢できなかった。
あまりに間抜けなくしゃみだ。
八神が小さく笑って抱き寄せた。
「おいで、暖めてあげる…」
「…」
仕方なくもう一度八神の胸に身を預けた。
「今日の君は、素直で可愛らしいね…」
「…悪かったな、いつも素直じゃなくて。」
「素直でない君も、可愛らしくて好きだよ。」
「…黙れ。」
「はい…」
こうして八神にあやされるのは嫌いじゃない。
綺麗な優しい手で撫でられるのは、正直気持ちいい。
「なぁ、八神…」
返事はなかった。
その代わりに聞こえたのは静かな寝息だった。
顔を上げると八神は寝ていた。
八神の上から降りようとしたが、ケツも腰も痛くてどうにも起き上がれなかった。
「…ったく、もっと奥ってどこだっつの、バカ…立てないだろ…」
腹が立って、八神の額に軽くデコピンをくらわせてやった。
八神はビクともせずに涼しい顔をして寝ていた。
そんな八神を見ていたら、何故か口元が緩んだ。
「…ホント、バカだ。」
俺の歯型がくっきり浮かんだ肩をなぞりながら目を閉じた。
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