207 / 270

第39話

多いと思っていた飯は、残す事なく綺麗に完食した。 キッチンへの立ち入りら禁止されているが、俺はなにかをしたかった。 やってもらうばかりじゃ嫌だと思った。 反対した八神を押しきってシンクに溜まった食器を洗った。 ちなみに、皿を三枚割った。 そして、その破片で指を切った。 当然、八神には小っ酷く叱られた。 皿の件じゃなく、俺が怪我をした件についてだ。 手当てをしてもらってから、家を出た。 車に乗り込むと八神が駅に向かって走らせた。 「ねぇ蹴人。」 「ん?」 「少し早く出てしまったのでね、俺としてはもう少し君と居たいのだけれど、どうだろうか…」 「どうだろうかって…大学まで送って行きたいってストレートに言えばいいだろ。」 「そうだね、大学まで送って行きたい…です。」 なんというか、ちょっとだけ可愛いと思ってしまった。 ちょっとどころか、どうしようもなく… この上なく… 「好きにしろ…」 「では、遠慮なく、お姫…」 「様じゃないからな。」 八神の中では、最近そういうごっこ遊びが流行っているらしい。 俺を姫に見立ててあーだのこーだの… 冗談じゃない。 「酷いなぁ、最後まで言わせてよ。」 「嫌だ。俺は姫なんかじゃない。」 「蹴人は俺だけの可愛らしくて仕方のないお姫様だよ。」 「黙れ。」 「ふふ、本気なのだけれどね。」 信号が赤になる度に、俺を引き寄せてキス三昧だ。 いつもの甘やかすような顔中にしてくるやつだ。 車内でキスなんか、誰が見ているか分からない。 バレたら明日は株が大暴落だ…なんて思いながらそれを受け入れる俺はどうかしてる。 俺を甘やかしてるのか、俺が甘やかしてるのか… 八神総一郎… この男の甘さは底なしだ。 「お前はホントに意味分からない。」 「どうしたのだい?いきなり。」 「俺はお前に振り回されっぱなしだ。」 「そのような事は俺も同じだよ。」 「は?俺がいつお前を振り回したって?」 「最初からずっとだよ。君は放っておくとすぐにフラフラと…」 「あ?誰がフラフラだ、誰が。」 「君だよ。少し放っておくとキスマークを付けているし、俺以外の男にキスをされているし…本当ならば永遠に俺の中に仕舞い込んでおきたいくらいだよ。」 「サラッと怖い事言うな。…つか、キスなんてお前以外とした事な…」 いや、あったような気もする。 まさか朝倉の時の話をしているのか? 「…」 車のスピードが上がったような気がした。 上がったどころじゃない。 これは、確実に切符切られる速度だ。 八神は無意識なのか、それに気付いていない。 しかも、前どころか無茶苦茶俺を見てる。 「バカ!お前ブレーキ踏め!前見ろ!危ないッ!!」 「ッ…!!」 前の車にぶつかる寸前で凄いブレーキ音と共に車が止まった。 そして、自分を落ち着けるかのように八神が深い溜息を吐いて、俺からは安堵の溜息が漏れた。 「殺す気か!バカ!!」 生まれて初めて死ぬかと思った。 「クソッ!」 八神がそう言って、ハンドルに手を叩きつけた。 八神の口からそんな言葉が出た事に驚いた。 「…八神のクセに、クソとか言うな。」 「…駄目なんだ、君の事になると…俺は駄目なんだよ…」 俺は深い溜息を吐いた。 「…キスの事、見てたなら助けろよ。俺が望んでさせたとでも思ってたのか。」 俺は軽く思われていたらしい。 確かについ最近まで俺は軽い男だった。 それは認める… でも今はもう… 「助けられるものなら助けていたさ。…でも、あの時自分を抑えられずにいたら、彼を殴るか…もしくは…」 「ったくお前は…。ホント、ダメダメだ。…俺は、お前のせいでお前じゃないとダメになった…次弱気になんてなってみろ、絶対に許さない!」 こんな事を口走る程、俺はもう八神じゃないとダメになっているという事実が悔しくて仕方がなかった。 人間ってヤツは、一度崩れたら総崩れなのかもしれない。 あんなに必死に建てて、必死に守っていた砦が、たった一言口にしただけでガラガラと崩れた。 もう建て直す気力もない。 建て直す必要もないのかもしれない。

ともだちにシェアしよう!