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第10話

俺は明日からの事も考え、溜まってしまった仕事を少し片付けて帰宅した。 やはり自宅は安心する。 あのような事があった後なのだから当然だ。 ホテルに滞在する事の方が多かった以前とは違い、人が住んでいるのだという感覚がこの部屋にはある。 物も増えた。 例えば、蹴人の着替えであったり、増やした食器であったり、歯ブラシであったり、スリッパであったり… 電子機器なども少し増えた。 ブルーレイプレイヤー。 ゲーム機。 それらは使われる事が滅多にないけれど、俺とは違う人が出入りしているという事を思わせて安心する。 それは、出入りしている人物を理解しているからだ。 そして、その人物が最愛の人であるからだ。 部屋に蹴人を感じる事ができる… しかし、この出張期間中に蹴人がこの家に入った形跡はなかった。 合鍵を渡し、好きに出入りして良いと言っておいた筈だ。 やはりまだ、抵抗があるのだろうか… それとも、遠慮しているのだろうか… ふと時計を見ると蹴人のバイトが終わる時間が迫っていた。 俺は、トランクをクローゼットに入れて部屋を出て、車を走らせて蹴人を迎えに行った。 迷惑がられてしまうだろうか… 連絡しなかった事を叱られてしまうだろうか… 後者はないだろうと思い一人苦笑した。 店の前に車を停め、蹴人を待った。 暫くすると蹴人が出て来た。 俺は車を降りて蹴人に近付いた。 しかし、蹴人はスッと俺を通り過ぎてしまった。 怒っているのだろうか… 無視をされてしまうくらいに… それならば嬉しい… そのように感じてしまう俺はおかしいだろうか。 「蹴人。」 「…」 愛おしい名前を呼んでも蹴人の足は止まる事はなかった。 それどころか、まるで拒否をされているかの様に蹴人は早足になっていく。 堪らずに蹴人の手首を掴んで動きを止めた。 しかし、蹴人はまだ振り返らない。 「行かないで…ね?蹴人。」 「なんでこんなところに居るんだ…」 待ちに待った最愛の人の声に安堵した。 聞きたくて堪らなかった愛おしい声が聴覚を通じて身体中に澄み渡ってゆく… 「もう一泊して帰る予定だったのだけれど、早く君に会いたくなってしまってね。今日中に帰国できる便を探して帰国したのだよ。」 半分以上は本当の話だ。 けれど、俺の一日早い帰国には、もう一つ理由がある。 絶対に知られてはならない理由… 俺の発言には、本音と嘘が混在している。 「お前、バカなのか?」 「仕事が終わったのならば、君が優先だからね。当然の行動だよ。…それに、何よりも俺が君に会いたかった…」 「…ッ…」 「ただいま、蹴人。」 「…」 「蹴人、こちらを向いて?」 「嫌だ…」 「顔を見せて?」 「嫌だ…」 「ふふ、嫌々ばかりだね。可愛らしい。」 「なんでそうなる…」 「蹴人、君の顔を見たくて早く帰ってきたのだよ…ねぇ、君の顔を見せて?」 「…黙れ。」 焦れったくて仕方がない。 「強引されたいのかい?…きっと、強引に向かせてしまった方が簡単なのだろうね。」 「勝手に、すればいいだろ…」 一番簡単な手段を俺は理解している。 けれど… 「そうだね。けれど、俺は敢えて難しい方を選ぶ事にするよ。君が自らの意思で振り返ってくれた方が、きっと俺は嬉しい筈だから…」 強引に向かせてしまえばいいのだ。 しかし、俺は狡い人間だ。 素直でない蹴人を言葉を使って誘導する。 このような言い方をすれば蹴人は… 「…ッ…」 こうして振り返るのだという事を理解している。 理解しているけれど… 俺がそのように誘導した。 彼の意思ではない。 けれど、こうして見つめ合える事が嬉しくて仕方ない。 俺は今、どのような顔をして蹴人に微笑みかけているのだろう きっと張り付けたような愛想笑いではないのだと思う。 その感覚すらも分からなくなる程、蹴人の瞳に吸い込まれていた。 「ただいま、蹴人。」 俺はもう一度、そのように口にした。

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