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第30話
帰りは向井君がマンションの前まで送ってくれた。
本当はホテルに泊まろうと思っていた。
蹴人の名残を感じる場所に、一人で居るなど堪えられる筈もなかった。
そのような理由から、家に帰るのはあの日ぶりだ。
何故今日帰る気になったのか…
由莉亜に触発されたのかもしれない。
勘…
俺は勘などを頼りにした事がない。
勘など、一番信用のならないものであると考えていた。
その考えは今でも変わらない。
ただ、人生で一度くらいは頼ってもいいのではないかと、感じた。
勘など信用してはならないと言われ育てられた俺が、たった一度だけ言いつけを破るくらい許されてもいい筈だ。
吉と出るのか凶と出るのか…
俺はワクワクしていた。
結果に対してではない。
言い付けを破る事に対してだ。
あの人の言い付けを破るのは初めての事だ。
あの人は俺には興味がない事もあり、その言い付けの数は少なかったけれど、その少ない言い付けに全てが凝縮されていた。
何事においても完璧であれ…
完璧な人間などは居ない。
でも、俺は出来る限りあの人の言葉に忠実に生きて来たつもりだ。
俺に息抜きを覚えさせたのは折戸だ。
息抜きと言っても遊び歩くわけではない。
生徒会…
その場所に俺を誘い入れた。
あの人の目の行き届かない場所を俺に与えてくれた。
もしも高校時代に折戸に出会わなければ…
考えただけで恐ろしい…
折戸には感謝してもし足らない。
よく考えてみると、折戸が居なければ蹴人に出会う事もなかった。
俺は出来るだけ完璧に生きて来たつもりだ。
しかし、完璧ではなかった。
蹴人の前では完璧ではなかった。
確かに折戸や由莉亜には気を許している。
中でも蹴人は特別なのだ。
彼は、折戸や由莉亜の知らない俺を知っている。
本当に不思議な人だ…
俺の知らない俺を次々と引き出す。
俺は、蹴人により引き出される自分に出会う事が怖い…
しかし、同時に楽しみでもある。
そして、幸せでもある。
エレベーターに乗りながらずっとそのような事を考えていた。
もしも、このエレベーターが開いた先に蹴人が居たとしたならば、どんなに嬉しい事か…
そのような事は、ある筈がないけれど…
エレベーターの到着を合図する音が響き扉が開いた。
顔を上げた瞬間、夢を見ているのではないかと思った。
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