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第38話
まだ蹴人の表情が堅い。
「折戸さんが来た。」
「折戸?…」
蹴人の口から出た人物の名は意外だった。
折戸の名が出てくるとは思っていなかった。
しかし、何故折戸は…
疑問と同時にモヤモヤと何かが胸につかえた。
「あぁ。急に俺の家に来て、お前が君島さんの家族と会うから、今止めないとお前が結婚する事になるって言っわれた。」
「…折戸が蹴人の家に?…折戸が…ね。まだ俺も君の家を知らないというのに…」
俺でさえもまだ知らない蹴人の家に折戸が…
気に食わない…
例え、心を許した折戸であっても…
「調べたらしい。…あと、お前が仕事人間になりすぎて困るって言われた。」
俺はこの数日折戸を呆れさせる程に仕事に身が入っていない状態であった筈だ。
何を考えて折戸は蹴人にそのような嘘を口にしたのか…
それは全て俺の為だ。
それだけは分かっている。
折戸壱矢という人物は昔からそういう男だった。
「仕事?…君とあのような事になってしまって、仕事など手につくわけがないじゃないか。」
「は?」
「毎日のように折戸に怒られていたよ。違う書類にサインをしてしまったり、会議中に上の空になってしまったりと、ミスが目立ってね。」
「…じゃあ折戸さんが嘘ついてたって事か?」
「おそらくは、そういう事になるね。」
「…クソ、やられた…」
「まさか、折戸が俺の目を盗んでそのような事をしていたとは…」
折戸のどこにそのような暇があったのだろうか。
不思議で仕方がない。
「明日、君島さんの家族と会うのか?」
「その件は解決済みだよ。明日は、由莉亜がフランスに帰ると言うのでね、見送りに行く予定だよ。」
「フランス?」
「由莉亜は今、フランスで恋人と住んでいてね、ピアノのリサイタルを日本で行う為にこちらへ帰ってきていたのだよ。」
「なるほど。」
「由莉亜はピアニストでね、今回の演奏も相変わらず素晴らしかったよ。今度日本でリサイタルがある時は、蹴人も連れて行ってあげるよ。」
「いや、遠慮しとく。ピアノなんて間違いなく寝る。」
そう言われるであろう事は分かっていた。
蹴人は自分に正直な子だ。
嫌な事に対しては嫌だと言う。
好きな事に関しては行動で示す事が多い。
それをいつ示すのかは分からない。
つまり、俺は蹴人から目が離せないのだ。
蹴人は正直であり、不器用だ。
不器用というのもあるけれど、どちらかと言えば臆病…
そちらの方が正しいのかもしれない。
人の心に触れる事を恐れている。
近寄りすぎると逃げてしまうし、距離を取ると淋しがる…
一体どの位置が正しいのか…
まだまだ模索中だ。
人間関係に何が正しいのか、何が間違えているのかなどはないのだ。
家族であっても、友人であっても、恋人であっても…
今までがそうであったように今回みたいな事を俺達は繰り返すのだろうと思う。
そして、一つ一つ学んでいくのだろう。
「…では止めておこう。君の寝顔は俺だけのものだからね。」
「だから、頭悪い事言うな。」
「君の事ならば、俺はいくらでも馬鹿になれるよ。」
「…バカ。」
「うん、そうだよ…。俺はね、君の事でならばいくらでも馬鹿になれる。」
蹴人に対しては俺はいくらでも馬鹿になれる。
今迄もこれからもずっと…
「ぶぇっくしっ!」
沢山汗をかいた為に身体が冷えたのだろう。
蹴人が豪快にくしゃみをした。
思わず笑ってしまった。
「おいで、暖めてあげる…」
蹴人を包み込む様に抱き寄せた。
「…」
いつもならば、大人しくこういった事をさせてはもらえない。
今日の蹴人は驚く程に素直だ。
「今日の君は、素直で可愛らしいね…」
「…悪かったな、いつも素直じゃなくて。」
「素直でない君も、可愛らしくて好きだよ。」
「…黙れ。」
俺は蹴人の黙れという口癖が好きだ。
蹴人と出会うまで言われた事のない言葉だ。
「はい…」
あまりの愛おしさに蹴人を撫でながら小さく笑った。
蹴人のふわふわとした猫っ毛が眠気を誘った。
俺の方が気持ちが良くなってしまったのだ。
そして、可愛らしく愛おしい人の姿は霞んでいった。
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