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第5話

黒田は文庫本を片手に大鍋の前に立っていた。右手に木べらを握り、時どき思い出したようにかき混ぜる。 大鍋の中にはみじん切りにされた玉ねぎの大玉8個分がジュウ~という音をさせながら徐々にゴールにむけて色を変え始めていた。 完全に茶色くなるまでの1時間は絶対に必要不可欠な長さだ。コクと甘味の感じられないカレーなど、美味しくも何ともない。そうかといって、ただ何もせずに鍋のなかを見続けるのはさすがに苦痛だ。 カレーの仕込みは読書とともに始まる。黒田が選んだのはアンソロジーだ。途中でやめることのできない長さの本を選ぶとカレーに支障をきたす。複数の作家が書いた短編をいくつも読むことができる、このタイプの本は時と場所を選ばない。移動の合間に読むにも都合がいいし、ぽっと空いた一日の谷間の瞬間にも手をのばす。もちろんカレーにも最適。 トロトロになった玉ねぎとニンニク、ショウガ、シード状のクミンの香りに満足した黒田はミキサーを取り出した。トマト缶と人参とセロリを入れて撹拌する。橙と赤が混ざった綺麗な液体に変わった中身を鍋に注ぐ。 人参2本、セロリは3本、トマト缶は全部で3つ。紙パックの野菜ジュースを1リットルさらに加えた。鶏ガラの肺と腎臓を綺麗に取り除き、キッチンハサミで切り分けたあと不織布のダシパックに詰め込む。鶏ガラは3つの袋に分割されたあと鍋にいれられるが、そのうち一つにはシナモンスティックが1本加えられた。 カレーにクミンとシナモンは必須、これが黒田のこだわりだ。 ローリエを3枚加えて黒田は鍋をかき混ぜた。 あとは勝手に鍋が仕事をしてくれる。ただただ煮込むだけで、あくを取る事ぐらいしか面倒はかからない。 煮込む時間は決まっていないが中身の色が変わった時がタイミングになる。 「ルーを入れる前の状態で美味しくなければ、旨いカレーになるはずがない。」黒田は偉そうに言いながら作り方を教えたことを思い出していた。レシピを覚えているだろうか?その次に思い直す。カレーを食べるたびに思い出すのなら作る事はしていないだろう、その答えに行きつくとやはり落ち込むのだ。 欲しがるものほど遠くにいってしまうから、人は欲張りになるのかもしれない。そしていらないものにまで欲をだし、黒田のような人間が必要になる。 一段落したから何時ものようにコーヒーが入っているブリキの缶に手をのばしたが、缶をにぎることはなかった。床に寝かせる状態で適当に転がっている赤ワインの前にしゃがみこむ。 その視線の先はラベルを次々に捉え、やがて一点で止まった。選び出されたボトルは「ラクリマ・クリスティ」キリストの涙と名付けられた由来は、原料となる葡萄畑の葡萄にキリストの涙がかかったことから、特別な葡萄が採れるようになったというものだ。 ソムリエナイフで器用にカバーをはずし、コルクを抜く。コルクの香りを確かめると、グラスに注いだ。 「さてと。」 黒田はテーブルの上に置いてある本を見たあと、ワイングラスをその隣に置いた。読み始めた本はいつになく黒田を苦しめている。登場人物が皆冷たく、意地が悪いせいで共感できる人間が一人もいない。そしてダラダラと物語が進んでいくのだが、何処を、そして何を求めて作者がこれを書いたのか。それがまったく見えないから読むことが苦痛で放り投げたくなる。それなのに、何かがあるかもしれないと期待してページを繰ることになってしまうのだ。 「忌々しい本だ。」 忌々しいが気になってしょうがないくせに-独り言に返ってくる、もう一人の自分の返事。 ワインを一口含み、結局は本を手に取った。ページを繰りだせばそこにある世界にどっぷりとはまりこんでしまう。 ページをめくる音 ワインを飲みこむ音 野鳥たちがどんなにコツコツとガラスをつついても、黒田が立ち上がることはなかった。

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