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第6話

窓の外は雨。まもなく雨を見ることがなくなる。 冬になれば昼間でもマイナスの外気温とあっては水が滴で存在するのは不可能だ。雪となって降り積もり、道路を覆い、地面を隠す。鹿たちはその雪の中に鼻先をつっこみ、わずかの枯れた植物を口にする。 痩せ細ったキタキツネが辺りを探し、カラスが咥えてきた生ごみを奪いあう。冬は動物にとって過酷な季節。人間は温かい場所で寝起きをし、食料は尽きることなく店に並んでいる。買に行くのが億劫になり、外にでるには結構な決心と身支度が必要になる面倒さはあるが、命の危険はない。 鳥籠をぶら下げたナナカマドの木は大方赤く染まった葉がおちて、真っ赤な実だけが茶灰色の枝と見事なコントラストを見せている。野鳥は秋口よりも多くの数が鳥籠に押し寄せヒマワリの種を食べていくようになった。自分と野鳥だけは、命の心配をしなくていいとは有難い。 ここに来て間もなく1年半になる。長年の勤続を理由に黒田がもぎとった休暇は2年。20年以上に渡り動き続けてきた代償としては少ないくらいだが、フリーではない以上規則には従わなければならない。そうはいっても黒田の評価があってこその長期休暇で、全員がこれだけの期間を手にすることはできないのだ。 黒田が休暇を使ってしようと決めたのは自分の店を持つということだった。100%道楽で、食べていくためでも何でもない趣味のような2年を過ごそう。それは今までにない経験で黒田の胸は期待に膨らんだ。 いつ何時、不測の事態が起こって本店に呼び戻されるようなことがあっても移動が速やかにできること。 そして自然があり静かであること、田舎すぎないこと。それを考慮すると田舎のバスより多い本数の飛行機が飛ぶ札幌は黒田にとって理想だった。四季を感じるだけの自然を持ち合わせていながら、200万人都市である都会には紛れる場所が沢山存在する。 そしてロケーションはいいが不便、そしてどんな店も長続きしない空き店舗を探し始めた。 黒田にとって「探す」ことは日常すぎて難しくもなんともない事だったから、今住んでいるこの場所を見つけるのにそう時間はかからなかった。 もともとは銀行の支店長が建てた家で、退屈しのぎに奥方が自宅の一部を改装して店にしたのが始まりらしい。仕事が忙しい旦那を待つよりも楽しい事を見つけようとしたのだろうが、結局は転勤により店は閉店になり売り物件になった。それを吹田の父が買ったようだが、いつまでたっても売れない不良物件になってしまった。その後店舗付住宅として賃貸に切り替え、何人かがここで店を始めた。最寄に地下鉄駅がないので、バスを乗り継いで来なくてはならないこの場所は車で来る以外とても不便な場所だ。特に冬はアイスバーンの坂を上る必要があるから、客足は遠のく。 当然、どんな業種でも長続きせず代替わりを繰り返しているというわけだ。 黒田のこの店も、当然その中に埋もれていくわけで、人の記憶からもだんだん薄れていくに違いない。 自分の作った料理やアップルパイにお金を払う人がいるということが黒田にとっては重要だった。 ただの趣味である料理が金になる、それはアルバイトで初めて給料をもらった高校生の時のような気持ち。最小限のアンテナで暮らすことができ、読むべき本があり楽しむワインがある。 この休暇は黒田には必要な時間だった。様々なことを考えるためにも。 黒田は坂の下から昇ってくる車のかすかな音を捉えた。ハイブリットの車の音は微弱だが質の違う音がする。環境の観察と洞察力、そして現状を把握する能力。それは絶対に必要なもので、これらに鈍くなった時が退職の時期だ。20代の頃は40代で引退だと予測していたが、その40代も半ばを過ぎてしまった。 しかし、まだ能力の衰えはなく、逆に整理されてシンプルになった分だけ鋭くなったとも言える。 10月最後の日。この月から吹田はキャトルに乗ってここにはこない。穏やかな春がくるまで役に立たない車は冬眠にはいる。そして父親が乗っていた国産車がキャトルの穴を埋め、冬の間不本意ながら、吹田は国産車で過ごすのだ。早く春がくればいいのにと、日に何回も考えながら。 カランカラン 吹田を迎えるためにカップとソーサーを用意している黒田の耳にドアベルが響いた。 「こんにちは。」 「こんにちは。」 黒田は前回吹田が言った言葉のせいで、「振り込みますよ。」を言わなかった。 たとえ何度も飲み込んで躊躇してきた言葉であっても一度言ってしまえば簡単になる。 今ここで「振り込みます。」と言えば「ここには来るなということですか?」と返されるだけだ。できるだけ穏便にこの対面を終わらせたい黒田は普通の挨拶を吹田に返した。 吹田はわずかに唇を引き締めたが、そこからは言葉は何もでてこない。先を越されてシャットアウトされたように感じている時に、気の利いた返事などできるわけがない。 初めて逢った時から、吹田の心には黒田が棲みついてしまったのだ。侵入を許した覚えはない、もちろん黒田が入り込もうとしたわけではない。 それなのにすんなりと自分の中に黒田が居る現実は手に余るものだった。 常に必要最低限のことしか話さず、本当の笑顔すら見たことがない。音もなく動き、大きな手と長い指が器用にコーヒーを淹れパイを切る。 薄く笑う顔を見詰めていたいと願う反面、目が合うと自分の顔が赤くなっていやしないかと心配と不安が押し寄せてくるのだから困ったものだ。 別段ハンサムな顔立ちではないし、パーツ一つ一つ見ても秀でたものはない。人ごみで対面したとしても振り返ることなくすれ違っていく多くの人間と同じはずなのに、黒田の顔と雰囲気には「何か」が存在していた。 それはとても深い所から根ざしているもので、甘い蜜に誘われ食虫植物に留まってしまう昆虫や、毒だとわかっても虜になってしまう麻薬のような「何か」。 黒田誠之という名前と住んでいる場所、年齢は46歳。携帯電話は持っていない。(このご時世に。) 賃貸契約書の上に書かれた文字しか情報がなく、自分のことを話すことはない。 それなのにだ・・・。 それなのに、自分がつねに黒田を気にしていることに漫然とした不満がある。それをしている自分に腹が立つ、そうこれは黒田のせいではない、自分が愚かだから招いた現状だ。 本当は客としてここに毎日のように来たい。しかしそれをしてしまったら気持ちはどんどん膨れて自分の中から溢れてしまうだろう。結果はわかっている-絶対にこの男は自分のものにならない。それは春が来れば、またキャトルに乗れるという事実と同じくらい自分の中で鮮明に響いているから確実だ。 「冷たい雨ですよ。この季節になると、かえって雪のほうがいいくらいです。」 「キャトルは春まで御預けですね。」 吹田はカウンターに置かれたコーヒーを合図に椅子に座った。黒田はカウンターの向こうでパイのカットを始める。 その動きを目で追いながら、この人の奥底にはいったい何が詰まっているのだろう、そう推理したところで見えてくるのは作業をしている姿だけだ。 中に何を潜めているのだろうか、それを自分が知りたいと思っているのか自信がない。 黒田の言うとおり振込にしてもらうほうがいいのかもしれない。このまま膨れそうな気持ちをやり過ごして、やがて消えていくのを待つほうがいい、そんな気がする。 吹田はその努力を今日から始めようと決心した。

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