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第8話

カランカラン 指定された時間どおりに来客を告げるドアベルが鳴る。 他の客がいればまだ気が紛れるというのに、今日に限って客はいなかった。コーヒーを用意しようとした黒田の手が止まる。男がコーヒーを飲まないことを思い出したから、湯を沸かすためにヤカンを火にかけた。 「御無沙汰しています。」 「ああ。」 「舌打ちよりましですが、あまりに素っ気ない。」 男は口の端をわずかにあげて微笑んだ。黒田はその顔を見て自分の底にある塊がコロンと転がった、そんな気持ちになったことを残念に思う。まだそんなものが自分の中にあり、存在し続けている現実。 決して消えてなくならないもの。それを自分の中に置き土産のように仕込んでいった向かい側の男は、まるで他人の顔をして立っている。 おまけに持ってきたのは「パイ3つ」と迷惑でしかない案件。 悔しくなって、ヤカンの火を止めた黒田はあまりに自分の行動が子供っぽいことに落ち込んだ。 「歓迎はしてもらえないとは思っていましたが、さすがに凹みますよ。今となっては私を凹ませる人間は周りにいなくなったというのに、貴方には・・・まあ、いいです。」 何時の間に自分のことを「私」と表現するようになったのだろうか。黒田の胸がキリっと軋んだ。 眩しいくらいの瞳は自分だけを見詰め、後を追い必死に手をのばしてきたというのに。その時は「俺」だけを見てくださいと懇願して纏わりついてきた。 それがどうだ。目の前に立つ男はノーフレームでツルがシルバーの眼鏡をかけ、ナチュラルにルーズな遊びを施してカットされたショートの黒い髪が銀色を際立させている。レンズの奥にある瞳は白目が少なく、塗りこめられたような瞳孔が光っていた。すっきりした鼻筋と薄い唇。 男に対する黒田の印象に冷たさは一欠けらもなかった。しかし今、堂々と立っている容姿は冷たさを纏い、氷に触れた時のように指先が捕まってしまうのではないか、それくらい体温を感じさせない。 16年、そう言ってしまえば単なる単語だが、確実に時は流れている。目映く光っていた青年が冷たい男に成り変わるくらいには。 一回り違う歳の差は、かつて黒田に余裕を持たせ、青年には焦りを与えた。それが今となっては二人の間にある年齢差は縮まっている。 「お手数ですがコーヒーをいただけますか?」 黒田はぐっと詰まった。それは試しているのか?それとも本当に飲めるようになったということか? いずれにしても火を止めた行動が正しいことに落胆する。 男は当たり前に黒田に向かい合うカウンター席に座った。 黙って差し出されたコーヒーをブラックで飲み、ほうっと一息ついている様は嫌々飲んでいるわけではないことを物語っている。 「てっきり飲めるようになったのか?そう言ってくれると思ったのですが。」 「飲めるようになった事は知らなかった。今はもうFAUCHONのアールグレイは買い置きしていない。」 今、僅かに目の奥に何かがよぎらなかったか?寂しさ、悔しさ・・・わからない。黒田はそこに望みをかけている自分に呆れつつ、そう簡単にこの機会を逃すものかと心を固めた。伊達に一回りも歳をくっていないのだ、12年分の経験値が自分にはある、そう信じて。 「厄介事の話しをまず聞こうじゃないか、琴巳。」 琴巳と呼ばれて僅かに肩が動いたことに黒田はいいようのない興奮を覚えた。負けっぱなしでいるわけにはいかない。厄介事を自ら運んでくる、そんな立場には今はない琴巳がわざわざやってきた。 それはなにかしら自分達の有り方に変化がもたらされる、そういうことだ。 「荷捌き所に妙なものが届きました。」 立って腕を組んだまま黒田はなにも返さない。カウンター越しの厨房から立ったまま琴巳を見下ろしている。余裕だと見せるためにあえてカウンターに座ったのは選択ミスだったと後悔しても遅かった。距離が近くなるとしても同じ目線で話すほうが、対等であると主張したい自分の気持ちが伝わったかもしれない。 琴巳は内にある動揺を外に漏らすまいと必死だった。 黒田は言ったのだ「厄介事の話しを「まず」聞こうじゃないか。」と。それは業務連絡が終わっても会話が続く事を意味しており、その行方は互いの関係のことになる。黒田はそこに言及したいと考えているということで、長年避けられてきた多くの事柄が明らかになるという意味は琴巳に打撃を与えた。 そして、前と変わらず「琴巳」と呼んだ。統括マネージャーでもなく、伊勢でもなく、琴巳と。 そう呼ばれて身体の芯に何かが灯ってしまったことだけは何としても隠さなければならない。 だから単刀直入に「厄介事」にだけ集中する。 「黒い封筒に入った10$札が1枚。」 黒田はここで盛大に顔をしかめた。面倒な仕事が入りました、顧客のクレームがありまして対処が必要です。大方そんなものだろうとタカをくくっていたはずだ。琴巳の予想は当たっており、黒田は想定外の厄介事に本当なら頭を抱えたいはずなのに、しかめた顔以外どこも動かすことは無かった。 それを認めて悔しいと思う。どんなに追いつこうとしても瞬きをする合間に背中ははるか前方にあるのだ。 スキップをするかのように軽々と。 「だから私は組みたくないと言った。それを無理やりやらせたのは社長だぞ。今頃になってどうにかしろと言われても困ることぐらい社長だってわかっているだろう。」 「貴方の言い分はもちろんです。「挨拶」を誰の依頼で発送してきたかは現在調査中ですが、「ドラッグストア」は心当たりが無いの一点張りです。個人的なものだとしたら相当厄介ですが、私の見立てではその可能性が一番高い。」 「わかるように端的に。」 カフェの店主然とした男はもうここにはいない。瞳は鋭く光り、青白く変わった肌から黒田の脳に身体が蓄える血液が集まっていることがわかる。様々な情報を分析し対処するために、昔に行った仕事の内容を思い返し反芻しているだろう。不本意な形で取り組まなくてはいけなかった仕事、そしてその相手に関して。 「長らく我々「百貨店」は独自の客とその紹介により要望される商品を提供してきました。この業界にも波がありまして、現状は「ドラッグストア」が日常に浸透しています。」 「それは私も知っている現状だ。だからといって老舗百貨店が潰れることは無い。小売りに特化していない私のいる「外商部」は新規開拓をする必要がない。それに外商部の顧客が百貨店を切ることは無い。」 「そうはいっても、顧客も時には「ドラッグストア」を利用します。」 「だからなんだというのだ、選択の自由は生きていくうえで保証されている。私はあくまでも百貨店の社員だ。ただの「クスリ屋」だった彼らが手広く商品展開して地域に根差そうと、どれだけ台頭してこようと知ったことではない。」 「封筒を送りつけてきた主は・・・自分の個人商店をたたみました。」 「なんだって?」 淡々と話していた黒田の口調が変わった。組んでいた腕が解かれカウンターの端を握っている。ギリギリと音がきこえてきそうなほどに強く。 「自分の店を閉めて姿をくらました。まだ裏はとれていませんが「物流」に潜り込んだという情報があります。まさかそこまでするとはね。貴方は罪作りだ。」 「あの女が自分で物を運ぶだと?ありえないだろう。一体全体どういうことだ。」 「単なる隠れ蓑ですよ。この業界では個人商店のままでは百貨店の情報を得る事が難しいのです。 虎穴に入らずんば虎子を得ず・・・ですよ。あの女にしてみれば、ベンガルトラのように美しい毛皮なのですよ、貴方は。皮を剥いで敷物にして裸で寝転ぶつもりです。「物流」は表向きの顔でしかない。 こちらの動向を探り、ドライバーという名の部下とともに貴方を付け狙うつもりだ。」 「こんなことになるならいっそのこと、アンジェリカと寝ておけばよかったか?」 「いけしゃあしゃあと。私の知る限り貴方は嘘だけはつかない人でしたが、歳をとれば変わるのですね。 どうりで私がコーヒーを美味しいと思えるようになったわけだ。」 黒田はじっと琴巳を見詰める。その強い視線には本能的に身の危険を感じる程の鋭さが秘められており、狙われた獲物である動物が動けなくなるものと同質だ。 「あの頃、私はアンジェリカと寝る必要はなかったのだ。わかるだろう、琴巳が傍にいたのだから。」 唖然とした琴巳は僅かに唇が開いてしまったことにも気が付かないでいた。必要がなかったと言った。そして琴巳が傍にいたのだからと・・・言った。なにより黒田は嘘をつかない男だった、少なくとも自分には。 「何も・・・なかったと?」 「ああ、でも逃げ出した琴巳は私の言い分を聞くことなく、周囲の雑音だけを信じて拒絶した。別れの言葉もなく、文字通り逃げ出した。私ではなく父親である社長の懐の中で丸まる事を選び、わたしの仕事はどんどん地方や海外に飛ばされるようになったわけだ。 アンジェリカと組ませたかったのは、あの女をスカウトするためでも何でもない。社長は許せなかった、琴巳が私にどんどん傾倒していくことを。その危うい憧憬が違うものに変わっていくことを。状況として憧憬どころではなく互いの気持ちは大きく育っていた、少なくとも私はそうだった。 だからだよ。頑固な琴巳の気持ちを挫くために、あの仕事をプランニングした。新人ですむような内容の簡単な仕事だぞ?プランナーかつシューターである私に宛がうこと自体が社長の大いなる警告だ。」 琴巳は自分が信じていたことがひっくり返ってしまったことに茫然としていた。怒りと嫉妬と情けなさ、それにまさる大きな悲しみ・・・それを力に変えモチベーションとしてのしあがる事だけを考え行動してきた。忌々しくもあったが、黒田に教わった考え方と行動を実行に移し事務方以上のポジションは無理だろうと思われていた自分の存在を違うものにした。 今や父親も及ばないプランナーとして認められるまでになったのだ。ただひたすらに、かつて逃げ出した背中に追いつくために走り続けてきた。 予想よりもかかってしまった時間。その16年間が琴巳の中でガラガラと音をたてて崩れていった。

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