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第9話

まだ18歳だった頃だ。 父親の「百貨店」に入店するべく、仕事に関わる一切の基本を琴巳に叩き込んだのは黒田だ。勤続10年を迎え、半年の休暇を与えられていた黒田が本店に呼び戻され教育係になった。黒田は30歳という若さですでに一流で、業界で彼を知らない人間は即信用できない筋だと判断されるほどに名前が轟いていたのだ。 適当に留学して帰ってきた琴巳は自分の進む道を父親に丸投げした結果、与えられたのは家業だった。 『別に自分の手を汚すことはない。荷捌き所に届く荷物を見極め各売り場に持っていく。そして商品を買ってもらい、組織を束ねていく。買い物をするという気持ちの昂ぶりを内に秘めながら出かけるデパートと何の違いがある?需要と供給のバランスを司る「百貨店」は必要な組織だ。』 父親の言葉に疑問がわかなかったと言えば嘘になるが、育ってきた環境が他と違うのは充分承知していた。小学生の頃から父と生活をともにすることはなく、田舎の学校を1年から1年半で転校しながら過ごしたのだ。母と一緒に何かから逃げ続けるような生活をしていれば、遠ざかっていなければいけない何かがあることぐらい子供にだって察することはできる。 中学を卒業すると留学することを言い渡され、父の秘書という男と共同生活することになった。 「この国は物騒ですから。」そう言われて、護身術を叩きこまれた。どこが弱点(彼は急所とは言わなかった。)なのか的確に記憶するまで根気よく反復を繰り返す。銃の扱いも同様。暴発の仕組み、使ってはいけない銃(粗悪品の見極め方)手入れ方法。もちろん射撃場にも連れて行かれた。 「日本人は甘いのです、神経をとがらせることを随分昔に忘れてしまった。それは身を滅ぼします。」静かな声で言いながら、撃つことを強いる。こんな男と3年間暮らし、幼いころからすべて父親の命令どおりに生きてきた、それが琴巳だ。 黒田は琴巳が知る誰とも違う男だった。口数は少ないが言葉は的確でわかりやすく丁寧。疑問にも面倒臭がらずに答え、その疑問に至った経緯を聞かれる。何をどう考えてそこに行きついたのか。 黒田の教えはすべてその形で進んでいくから、琴巳は考える事を当たり前と思う思考回路に変わって行った。どんどん黒田と同じ筋道で考えていくようになっている自分が嬉しかった。 もっともっと黒田と一緒になりたい、そう考えている自分の中で男としての欲が顔をだすようになり、自分の想いが他と違う方向に進みつつあることを実感した。特別自分のセクシャリティーを深く考えたことは無く、将来は結婚するのだろう程度のものだったから芽生えた衝動に恐怖した。 黒田の黒い瞳をみると喉がつまったようになり、そして渇きを覚える。背中を押された、ただそれだけなのにそこだけ皮膚が火傷したかのように熱くヒリヒリする。 男として黒田を欲し、もっと触り、そして触ってほしいと願っている自分。これを知れば黒田は自分の前から姿を消すだろう。琴巳にとってはそっちのほうがよほど怖かった。 そして、想いが溢れ出し溺れそうになり、どうにもできなくなって黒田に縋った。 身体ごとぶつかり受け入れられた心と身体。 教官と教え子に新たな関係が加わり琴巳の世界はガラリと変わった。黒田によって自分の身体がどんどん変わっていくことに喜びを感じ、自分の身体によって昇りつめる黒田の姿に幸福を感じた。 いずれ自分が社長になればすべてうまくいくと信じて疑わなかった。黒田を傍に置いても誰も文句を言えるわけがない、百貨店のトップの意向に逆らう者など存在しない。 黒田との関係が続いていくことに何の疑問をもっていなかった琴巳の考えは、あまりに甘かった。 そして、若かった。 琴巳は父の策略に嵌まり、自らの意思で黒田から逃げ出したのだ。 教育係が黒田から別の女に変わると突然聞かされて、初めて父に反抗した。それなら百貨店には入店しないとゴネた。内情を知った人間を自由にするはずのない父親に刃向っても無駄だと知りながら、それでも受け入れなかった。3日たっても部屋から出てこようとしない琴巳の頑固さは父親にとっては意外なものだったから黒田を排除することを選択したのだ、いかにもプランナーらしい解決策で。 アンジェリカ・テン。カザフスタン出身の美しい女は東洋的な容貌にエキゾチックな雰囲気を纏い、男を虜にするのが常套のシューター。ソ連をはじめ日本・中国・韓国を活動の場とし、完璧にマスターした英語・ロシア語・日本語を駆使して自由に駆け巡る女。アンジェリカは黒い封筒に10$札を入れて「挨拶」をする。 そして全てが終わったあと、同様の黒封筒と10$札が署名として置かれるため、彼女の案件であることが周囲に知られるのだ。 そこまで自己主張するシューターは他にはおらず、絶対的な自信がアンジェリカの特徴だ。 一人でも容易にこなせるレベルの案件をアンジェリカと組むことを強制され、黒田は現場に赴いた。 琴巳は早く帰ってくればいい、それだけを考え続けていた。教育係をまだ継続したい、そう一緒に父親に談判してくれるだろうと想像し、黒田がそうしてくれることを疑いもしなかった。 父親はある日言ったのだ。「あれだけストイックな黒田でもやはり男なのだな。」と。 最初は意味がわからなかった。父親はまったく理解できていない息子の様子を認めて畳み込んだ。 「アンジェリカと組んで、無傷で帰ってきた男はいないよ。100%全員骨抜きになる。」 父親にとっては黒田がアンジェリカと寝ていようが拒絶していようがどちらでも構わなかった。琴巳の心に一矢報いればそれでよかったのだ。刺さった場所から毒が徐々に広がっていくように、疑念が確信にかわりさえすれば事実などどうでもいい事。 そして琴巳は黒田を避け、父親は黒田を遠方の案件に飛ばし続けた。あっけないものだ。 プランナーにしてやられたというわけだ、それも実の父親に。 18歳の初恋と約1年の逢瀬。未だ消えてくれない想いは油断したふとした時に心を抉る。 無理をしてコーヒーを飲める人間に変わろうとした、そんなことを思い出す時。 カレーを食べるたびに黒田のカレー以上のものはない、そんなことを考えてしまう時。 どうしても聞けなかった。聞いて「やはり女はいい、アンジェリカと寝た。」そう言われたら二度と立ち上がれそうになかったし黒田を許すことは不可能だった。 黒田に限ってそんなことはない、そう考えるすぐ先には「もしそうだったら?」という恐ろしい答えにいきつく。聞く勇気も受け止める自信もない僅か19歳の自分に何ができただろうか。 琴巳に出来ることは避けることしかなく、父親は遠慮なしに黒田を飛ばし続けた。 御座なりに女と付き合ってみても、自分の欲はくすぶるばかりで消化されることはなかった。奉仕させ挿入し吐き出すという一連の作業じみたSEXで相手が満足するはずもなく、長く関係が続くことはなかった。 黒田の大きな手のひらと長い指・・・それであれば容易に自分の中にある場所を的確に愛撫できるというのに、自分の指では届かない。黒田でなければ駄目なのだという現実は琴巳の心を抉り続けた。 マスターベーションでさえ満足にできず、無理やり吐精したあとに残るのは虚無感と飢餓感。 女も駄目、自分で面倒をみることも駄目。いっそバイブでもつっこもうかとヤケになって考えたこともあったが、無機質な物体を自分の中に挿れるのは嫌だった。そう、これも黒田じゃなければ駄目であり、バイブどころか他の男は選択肢になかった。 我慢・・・そして全身が傷だらけになって血が流れていると錯覚するような孤独。 琴巳の16年はとても重く、そして長い時間だった。

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