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第10話

「逃げ出した琴巳を責める権利はない。私は諦めることを選択したのだから。」 「逃げと諦め・・・。」 「考えてもみろ。有能だとしても社員である私、そして次期社長である琴巳。伊勢という百貨店を繋いでいく役目を担っている若者を私は誑かした。琴巳が逃げなければ、私が先に拒絶することをしていたはずだ。 年上である自分が手を離して解放してやるべきだと、最初からそれは考えていた事だ。」 「そんなことを言うのですか!であれば私を受け入れることなどしなければよかった!単なるケツの青い若造の初恋が失恋で終わった、その程度ですんだかもしれない。」 その程度ですんだか?済まなかっただろう。黒田の体温や肌の感触、囁かれる言葉。それがどんなふうに自分を包み込むのかと想像することを止められなかったはずだ。もしあの時、もしかしたら、言葉を間違えなければ・・・そのタラレバを自分の中で繰り返し、気持ちは消えるどころかどんどん重くなっていったことだろう。歪んだままに育ち続け、やがて黒田を憎むようになっていたかもしれない。 琴巳の中に大事にしまわれている物、黒田の体温、肌、視線、キス。それを一緒くたにして自分の腕の中で抱きしめる。そうすると涙があふれてしまうが、黒田が確かに自分を見ていたと、それを信じることができる。身を削られる様な孤独の中で、その事実だけが琴巳を救い続けてきたのだ。 「抵抗を続けてもいつか決壊するのはわかりきっていたさ。私の中で膨らみつづける琴巳から視線を引きはがすのにどれだけ労力を使ったのか知らないだろう。 自分から欲しいと切に願ったのは、後にも先にも琴巳だけだよ。ま、先はないのだろうが。」 自虐めいた自分の言葉に諦めにも似た寂しさが零れてくる。この機会を逃さないと強気であった自分の心がどんどん弱くなっていくのを黒田は感じていた。 私と自分呼ぶようになった琴巳はすっかり冷たい大人になっていた、第一印象はそうだった。 だか僅かに開いた口や、ピクっと動く肩と指先によって、表面上の冷たさは雪山の雪崩のようにズルズルと滑り落ちて消えていこうとしている。唖然とする瞳、揺れる視線が動揺を晒し、どんどん無防備になっていく姿。かつて黒田を欲し、必死について来ようとした琴巳が見え隠れする度に腕を伸ばしたくなる。 あの日・・・仕事を終えて部屋に戻るとドアの前に琴巳がいたのだ。「帰りなさい。」と何度言っても、どれだけ冷たい声をだしても頑として動かなかった。話しを聞いてくれの一点張りに根負けした黒田は琴巳を部屋に入れた。靴を脱ぐ間も惜しいとばかりに、琴巳は腕に両手でしがみつき言った。 「どうしようもないくらい柾さんが好きです。どうしたらいいですか?」 どうしたら?決まっている諦めなさい、気の迷いだ。この日がきたらそう言うと決めていた。琴巳の気持ちはジリジリと肌を焦がす真夏の太陽のように、黒田の全身を照りつけていた。そのくらいに明確で丸見えで素直、そして自然だった。嘘も裏も何もなし、本気のみせる熱。 それに当てられ続け、どんどん光り輝いていく琴巳に眩暈がしそうになっていくのにそう時間はかからなかった。男を相手にしたことはなかったが、琴巳という青年の熱と煌めきを自分のものにしたいと願っていることに気が付いた時、黒田は決めたのだ。琴巳が言葉にだして自分を求めてきたら拒絶しようと。 重い血筋を持った若者を手にいれていいはずがない。身内ともいうべき社員の自分が社長の所有物に手をだす意味くらい充分すぎるほどにわかっていた。 百貨店をやめてフリーになっても食べていくことに問題はなかった。たとえ百貨店に追われる立場になっても逃げおおせる自信もあった。しかしそれは自分ひとりの面倒をみることは可能だが二人になれば無理という明確な事実を示していたともいえる。 まだ琴巳は何もできない足手まといでしかなく、組織に刃向って逃げたところで、待っている先には共倒れしかない。 だから拒絶する。 しがみつく琴巳の体温と下から自分を見上げる濡れて揺れる必死な視線。押し付けられた若い肉体。 どれをとっても黒田の決心を崩すに充分な力と熱をもっていた。 そしてこの日は黒田が仕事を仕上げて帰ってきた日だったのだ。 達成感と漲る昂揚感、性欲にも似た体中を駆け巡るアドレナリン。自分の中にこもる熱を放出したい、そう脳は訴え続け理性という鍵を壊しにかかった。司令塔である脳が暴走すれば、誰も止めることはできない。 生体電気による神経のシグナルを受け取り、肉体は暴走役を引き受ける。 黒田は噛みつくように琴巳の唇を塞ぎ、渇望と熱を吐き出す一歩を踏み出した。二人の一線を越えるキスはどんどん発展し、当然のように黒田は琴巳を組み敷いた。 まだ女を抱いたこともない10代の男の身体を開き押し入ったのだ。琴巳にとっては快楽とは無縁の行為に近かったはずなのに、それでも音をあげずに必死についていこうとしがみつく。 どんなときでも、それがセックスという未知の領域でも黒田が連れて行く場所ならついて行く。その必死さにいいようのない愛おしさを感じた黒田は、自分が完全に堕ちたことを実感した。 琴巳の若い肉体は欲望に忠実で、すべてを吸収していった。黒田は身も心も琴巳に溺れ、俺だけを見てと叫ぶ琴巳をひたすら抱いて、見ているのはお前だけだと言い続けた。 この関係を解消しなくてはいけないと決心した翌日には、実行を先延ばしにする自分に黒田は苛立った。 すでに手を離してやることができない程に自分の中で琴巳が大きくなっていることは無視できない。であれば、足手まといにならない程度にまで仕込めばいい。徹底的にスパルタで詰め込んでも琴巳は付いてくるはずだ。二人の未来のために今が頑張りどころだとハッパをかければ意地でもくらいついてくる。 その解決策にいきつき黒田はようやく心の平安を見出し、琴巳育成プログラムというプランニングを組み立てた。 そのタイミングで黒田に下された命令は、アンジェリカとロシアに飛べという明らかに社長の腹の一物が捻じ込まれたものだったのだ。 そしてそれが、琴巳と黒田の別れになった。

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