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第11話

琴巳は立ち上がって黒田に背を向けた。落ち着く必要があったし、このままでは制御不能になることが目に見えていた。こうやって立ち上がり背を向けた自分の行動が、その心情をあますことなく黒田に知られてしまうのも覚悟の上だ。優先順位、黒田が叩き込んだことのひとつ。 無様に涙を流して逃げ出してごめんなさいと叫ぶよりも、自分を保つことを優先させた琴巳は、窓際のカウンターテーブルの上にある双眼鏡に手を伸ばした。 「シュタイナー8×30。こんなものを置いてどうするつもりですか?」 「客が林の中にいるシカやエゾリスを見るためにだ。鳥籠にくる野鳥は間近に見えるが、明るい昼間リスは絶対道路を渡ってこない。そのほうがいい、車に轢かれたら可哀想だろう。」 「あなたが動物の命の心配をするとはね、何かのジョークですか?」 「それはたまに自分でも考えるよ。」 明らかに軍仕様とわかるデザインの双眼鏡。完全防水で500gをわずかに下回る重さ。この双眼鏡の長所はレンズにある。完全に反射を防ぐレンズが自分の居場所を隠してくれるからだ。 射撃手の場所を示すように、キラっとライフルの標準レンズの反射が向かいのビルの屋上で光り、捜査員が突入する。そんなシーンが映画ではよく出て来る。この双眼鏡はその反射がまったくないから、対象がどんなに自分の姿を見極めようとしても場所を特定されることはない。 「この双眼鏡が持つ性能の意味を知らずに、客は呑気に動物を眺めているということですか?」 「いいじゃないか、向こう側の動物の目にも優しい。」 琴巳はゆっくりと振り向いた。どうでもいいやりとりを交わして、随分落ち着いたから用件を伝えなくてはならない。琴巳はこれをチャンスだと捉えていた。父親の現状と郷崎のポジション、アンジェリカとターゲット、そして自分と黒田。これをすべて自分が望む方向にもっていく、それが琴巳のプランニングだ。 黒田が何と言おうと従わせる、社長にも文句は言わせない。その強い姿勢は最大の壁だった父親の首を縦に振らせた。16年たっても尚、黒田の事に関して頑固さを突き通し気持ちをかえることなく黒田に教えられたままに成長し続けた息子を認めるしかなかった。 「琴巳、アンジェリカの封筒の宛名は私だったということだな。」 ほら・・・やっぱり。また先を行くのですね、そう言ってしまいそうになる言葉を琴巳は飲み込んだ。 黒田の遥か手間にいる自分の立ち位置、それを示す言葉は今いらない。 「貴方の名前、そして私の名前。」 黒田の目から光が消えた。表情を無くし、投げかけられる視線は琴巳の身体を突き抜けて、窓の向こうに溶けていくような不気味さをもっていた。温度も質感もないというのに、その視線に滲み出る静かな振動。 琴巳は理解した、それが黒田の怒りであることを。そして自分が初めて見る表情であることを。 「ふざけるな。」 黒田の呟くような小さな声は、まるで耳元で怒鳴られたぐらいショックだった。アンジェリカに対する言葉であると理解していても自分に投げつけられたもののように感じた。黒田の怒り、そしてやるせなさ、後悔と悲鳴。小さな声にはすべてが溶け込み、琴巳の身体を貫いた。 「始末は私が責任もってつける。だから琴巳は本店に帰りなさい。ここは引き払い私の休暇は終わりだ。 わざわざ知らせてくれて有難う。この先も平穏無事で生きていかれることを約束する。アンジェリカの好きにはさせない。」 話しはこれで終わりとばかり、黒田はカウンター越しに乗り出し、空になったカップとソーサーを洗うために厨房側にさげた。 店内の電気を消し、慌ただしく片付けをはじめた厨房だけに電気が灯っている。ケーキ台のパイを一瞥したあと琴巳に聞く。 「持っていくか?余りものだから捨てるしかない。」 「話は終わっていませんが?」 「私は終わった。」 「黒田さん!」 黒田はため息をついて、目元を右手で覆った。黒田さん、そんなふうに呼ばれる日がくるとは思わなかった。貴方、それは我慢できる。私というようになったのだ、年上の相手を貴方と呼ぶのは常識の範囲内だから。だが・・・黒田さん、それは二人の間の距離のようで、もう交わることがない事を突き付けられた最後通牒のように黒田には聞こえた。 「なんですか、伊勢統括マネージャー。」 同じ思いをすればいい。投げつけた静かな言葉に琴巳は僅かだけ目を大きくしただけで踏みとどまった。 随分制御できるようになり、そして強くなったものだ。琴巳のプランニングはトリッキーかつ慎重でレベルが高いが、能力のあるシューターにとっては理想のプランだ。私にそれがまわってくることはなかったが、同僚から聞いた内容はなかなか面白い出来だった。「師匠としては嬉しいだろう?」そうからかわれた事に安心したことを思い出す。二人の関係は漏れてはいない。知る人間は限られているということだから、琴巳の将来に影を落とすことはないだろう。 琴巳はアタッシュケースをあけ、そこからクリアファイルを取り出し中から2枚の紙を抜いた。 そこにかかれている単純なチャートと吹きだし、スタートとゴールの横の注釈。関わる人間の名前。 すべて手書き、コピーは存在しない。これも黒田が教えたことだ。 「私のプランです。これを実行してもらいます。拒否権はありません、従っていただきます。」 黒田は2枚の紙を見て腕を組む。肌に青白さが戻り、目の奥でチャートを解析しながらどんどん内容を取り込んでいく姿には凄味がある。そこに加えるもの、想定されるトラブル、避けることのできるアクシデント。 黒田は組んだ腕をほどいた後、紙をビリビリ破いた。コンロの口火の上に金網を置き、そこですべてを燃やす。換気扇の引きこみによって黒い灰が螺旋を描いて舞い上がり吸い込まれていく。紙は完全に燃え、真っ赤に熱を蓄えた金網をシンクに落とすと水をかける。ジュっという音とともに水蒸気がモウモウと立ち上り黒田の顔を霧の中に滲ませた。 「社長は了承したのか?」 「ええ、飲まざるを得ないでしょう?あの人にはこの筋書きは書けないですよ。私だからできる。」 「プランに私情はナシだ、そう教えたはずだ。」 「ええ、ですが・・・優先順位を見失うな。そう教わったと記憶しています。」 「これが琴巳の優先順位というわけか・・・。」 「ええ、私情を除去する必要性はありません。むしろ必要です。」 琴巳が店に足を踏み入れてから二人はずっと向かいあった位置に身を置いていた。黒田がようやく動きだし、厨房からスイングドアを揺らせてフロアに来る。カウンターが壁のように間に存在していたので、手を伸ばせば届くくらいの距離でも大丈夫だったことに琴巳は狼狽えた。黒田が一歩一歩と近づいてくるその距離感に、昔覚えた喉のつまりと乾きを思い出す。今もまったく同じ状態で、息を深く吸い込むことができず呼吸が苦しかった。 黒田がすぐ前に立っている。昔と変わらず少しだけ上にある視線に引きこまれる。 伸びてきた長い指が琴巳の鼻先をかすめたあと手のひらに頬が包まれた。 「成長した。それを認めなくてはならない。傍に・・・いてやれなくてすまなかった。」 「・・・は・・い。俺も・・・逃げて・・・ごめんなさい。信じられなくて・・・ごめんなさい。」 「パイ、食べていくか?」 「・・・はい。」 「カレーを昨日仕込んだばかりだ。カレー食べるか?」 「・・・はっ・・・ぃ。」 我慢しようとした努力は虚しく潰えて、零れた涙が琴巳の頬をすべりおちていく。 それを黒田は綺麗だと思った。 強く綺麗に成長した男に、もう一度手を伸ばしていいだろうか。今度こそ離さないと言っていいだろうか。 「泊まっていくか?」 「うぅ・・・・くっ・・・は・・・・い・・。」 琴巳の身体は黒田の胸に包まれた、ずっと思い出し孤独と戦う武器にしてきた黒田の体温。それは変わらず温かく、そして大きかった。好きだと告げた10代の頃の自分のように両腕にしがみつく。強く握っていないと黒田が消えてしまうかもしれない、もしかしたらこれは夢で、目が覚めたら自分のベッドに一人で転がっている現実に戻ってしまうかもしれない。 そんな琴巳の怯えと不安が伝わったのか黒田の腕に力がこもる。 「もう、どこにもいくな。」 そう耳元で告げられて、琴巳はこれが夢ではないと信じることができた。

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