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第12話
黒田は濡れた髪をバスタオルでこすりながら、僅かに残った本のページを繰っていた。
琴巳の少し長くなるであろう入浴時間の間にすっきりしたかった。間接照明代わりのスポットライトの灯りを助けに黙々と読み進める。そしてとうとうこの物語の本質が見えたとき、黒田はここまでの努力が実を結んだと考えるべきか、無駄な時間だったと悔やむべきかわからなかった。好きな作家であるから出版されているかなりの冊数を読んだが、ここまで困惑した作品は初めてかもしれない。『煙突掃除の少年』というタイトルのポケットミステリをテーブルの上に置き暫く考えた後、無駄ではなかったと思い直す。ここまで不愉快だと思いながら読み進んだ本も珍しいし、父親がナチの親衛隊だったとか、殺人者だったとか、そういうオチならわかるが・・・。
もう一度読み返すことはないだろうが、まあよしとしよう。
冷蔵庫をあけてミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置いた。風呂上りに冷たい水は心地いいが身体に負担をかける。胃の中で体温と同じ温度になるまで温められてから液体は次の段階に進めるのだ。
どんどん冷たいものを身体に入れると体温がさがるのはそのせいで、あまり褒められたことではない。
黒田はグラスを持ち、赤ワインを一口飲みこむ。これもあまり褒められたことではないが。
正直なことを言うと、緊張していた。仕事のときは緊張感を楽しみ、むしろ必要なものであるのに今は叫びだしたいくらいだった。いったいどれだけの時間が二人の間に横たわるというのか。
30歳から46歳になるまでの間に誰とも付き合わなかったか?そんなわけはない。自分の身分を隠していることは長い関係の妨げになる。適当に脚色した自分の姿に疑問を重ねた女が問いただすまでが黒田の交際期間だった。自ら消えることで関係を解消した何人かの女達・・・顔を思い出せない女がほとんどだ。黒田が関わった中に男はいない。他の男を抱いてしまえば二度と琴巳を手にすることは叶わないと、願掛けにも似た思いが常にあったからだ。琴巳は果たしてどうだったのだろうか。
黒田はその先を考える事をやめた。考えた所で知った所で何になる?何も生み出さない。生まれるとすれば無責任な嫉妬心だけだ。手放さない努力を放棄した黒田に嫉妬をする権利はない。
それは同じく逃げ出した琴巳にもいえることだった。二人はともに愚かであり、あまりに一途だった。
ただそれだけのことだ。
ペタっという足の裏が床を叩く音が聞こえ、黒田はゆっくり振り向いた。そこにはバスタオルを握っただけの震える琴巳が全裸で立っていた。11月の季節柄部屋のなかは暖房で快適に温められている。琴巳の震えは室温がもたらすものではない。その儚さに黒田の目の奥が熱くなった。
「琴巳。」
「服を着たほうがいいのか、着ない方がいいのか、タオルを巻くべきなのか・・・。俺はすっかり忘れてしまったんです。柾さんとどうしていたのか・・・忘れてしまって・・・。」
一度決壊したせいなのか、琴巳はまた涙をこぼした。34歳になった男は18歳のときよりも幼く見えるほどに無防備だった。若さと勢いは消えてなくなり、そのかわり穏やかで確実な男の色気がそこにあった。身体の芯を刺激し、そこにある存在を匂とともに自分の中に取り込みたいと願う切羽詰った衝動。
貴方でも黒田さんでもない、「まささん」と黒田を呼び、自分を「俺」と表現する琴巳は二人がすれ違っていた時間の長さを超えた証でもあった。心細いと訴える琴巳の姿は黒田に深い安堵を与えた。
「柾さん・・・俺。」
「こっちにおいで。」
黒田の伸ばされた右手に視線を絡めて、琴巳は一歩一歩足を進めて近づいて行く。琴巳の伸ばされた左手が僅か黒田の指を捉えた時、強く握られ琴巳はまたしても黒田の胸の中にいた。
首筋に埋められる黒田の顔、肌にふれる柔らかい唇。
琴巳の息をのむ悲鳴のような音が喉からもれでたことを合図に黒田は首筋から離れた唇を重ねた。
柔らかさを確認し、挟みこんで舌先でなぞる。相変わらず琴巳の両腕は自分の腕にしがみつき、必死さの象徴のような力強さに黒田の胸が熱くなった。上唇と下唇の間に強引に潜りこみ歯列を舐めあげると、おそるおそる口が開かれる。優しくしてやろうという黒田の決心はここで霧散した。両頬を両手でしっかり固定し、思い切り琴巳の中に舌を埋め込む。後孔に挿入する猛った陰茎のごとく、黒田の舌は咥内を抉り続けた。
ときおり鼻から漏れ出る吐息のような甘さに頭が痺れ夢中になって貪る。
こんなキスを与えたことはなかった。長年溜まり続けた想いと欲望と後悔、それをすべて今から消しやる。
黒田の熱は琴巳を徐々に焦がしていく。燃えてしまえばいい、燃えてしまいたい。
二人の想いはピタリと寄り添った。
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