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嫌な予感

その日の18時過ぎ。講義が全部終わった後に、俺は例のゼミの担当教授の研究室を訪れた。 ゼミ毎にあいつに会う事になるのを避けるためだ。あいつの目的がなんなのか、今度は何をするつもりなのか。それとも別に企みなんてなくて、ここに来たのは偶々なのかもしれないけど、それでもあいつは俺がいることに気づいたのだ。気づいた上で知らないフリをするでもなく、意味深に話しかけてきた。また、何かよからぬ事を考えていたとしたら……。 何であれ、あいつと関わると碌なことにならない事は身をもって痛いくらいに知っている。 だが、結果的に担当教授との交渉はうまく行かなかった。 このゼミは必修の選択科目だったから、別のゼミに移りたいと希望したのだが、許可できないと言われてしまって、しつこく粘った結果、終いには「俺の講義をそんなに受けたくないなら受けなければいい」とキレられてしまった。 受けたくなくてもそんな訳にはいかない。この科目の単位を落としたら留年確定だ。そんな事になってこれ以上由信の両親に迷惑をかける訳にはいかないのだ……。 追い出される様に研究室を後にした俺は、これからどうするかな、と考えながらとぼとぼ歩いていた。ここは教授達の研究室しかない階だから、もう大学の講義も終わった今の時間、廊下はガランとしていて誰もいなかった。 廊下を進み、突き当たりを左に曲がれば階段の踊場だ。 ここに来る時に気づいたが、その踊場の蛍光灯は切れかかっているのか時折チカチカしていた。それを見た時に思ったのだ。なんとなくツイてないな、不吉だなって。そう言えば今日の学食でもそうだった。まあ、昼飯は由信と土佐のお陰で割と満足できたけど。でも、こんなに取りつく島もない程に交渉決裂するなんてなあ……。本当、これからどうしよう………。 踊り場に差し掛かった時だった。 いきなり横から手が伸びてきた。 完全に気を抜いていた俺は、それでもびっくりして飛び退きかけたけど、それより先に腕を捕らえられて、強く引っぱられた。反射的に出そうになった声は、大きな手に塞がれて蓋をされる。目の前にいるのは、俺が今一番会いたくなかった相手、天城。もう講義が終わってから何時間も経っているというのに、まだ残っていたんだ……! 天城は少し屈んで俺の目線に合わせると、自分の顔の前で人差し指を立てた。静かにしろって意味だ。天城の背中越しに、また蛍光灯がちらついた。天城は、逆らう様子のない俺を見て笑うと、俺の口を塞ぐ手をゆっくりと離した。 「ごめんね、驚いた?」 もう喋れるというのに、いきなりの事に混乱して何も言えない俺を見て、天城が苦笑する。 「またさっきみたく逃げられたら困るから」 「なんで………」 「あ、何でいるかって?今ちょうど小木教授と授業の打ち合せをしてたんだ。でもまさか愛由の方から来てくれるなんて思わなかったなあ」 やっぱり俺達って赤い糸で結ばれてるのかな。 そんな一見バカみたいな軽口にゾッとする。こいつが言うと冗談に聞こえない。 自分の不運を恨んだ事はこれまでも数えきれないけれど、こんな偶然ってあるかよ……。 「ねえ愛由、探したんだよ」 「探し、た……?」 「そうだよ。まあ、愛由って珍しい名前だから、割とすぐ見つかったんだけど、こうして会いに来るまでには色々障害があってね」 こいつがこの大学に現れたのはやっぱり確信犯だった。俺を、追って…………。 「まずは、あの時の事謝るよ」 天城は軽い調子で言った。そんな一言で済むようなものでは絶対にないのに。混乱や恐怖を押し退けて、怒りがめらめらと沸き起こる。そもそも、俺はこいつともう二度と会わないと思ったからこそ溜飲を下げた部分があったのに、こんな風にノコノコと俺の前に出てきやがって……! 「人の人生滅茶苦茶にしといて何言ってんだよ!」 「あれ?愛由の人生って元々滅茶苦茶だった気がするんだけど」 「ふざけんなッ!」 「ごめんごめん、そんなに怒るなよ。俺もあの頃は若くて。どういうやり方をすればいいのか分からなかったんだ」 怒りと悔しさに握りしめた拳がわなわなと震える。 若くて、とか、やり方が分からなかった、とか、そんな簡単な言い訳で終わらせて欲しくない。俺の受けた屈辱も悲しみも絶望も、全部そんな軽いもんじゃない。 「それに、あのせいで人生滅茶苦茶になったのは俺もなんだ」 「ッざけんな!お前俺に何したかわかってんのかよ!?」 「だから、後悔してるんだ。外科医も、諦めざるを得なくなってしまったし……」 天城は左手を見つめて握ったり開いたりしながら自嘲する様に言った。まさか、後遺症が……?それでこいつは精神科医に……。 「同情してくれてるの?愛由は相変わらず優しいなあ。そんな愛由が、俺はやっぱり好き」 こいつまだそんな事……! 気づけば天城の顔が物凄く近くて、頬に手まで触れられていた。警戒心を解いたつもりはないけれど、こうなっているってことは油断したって事だ。 「触んな!」 気持ち悪くてゾワゾワして、急いでその手を払い除ける。明確に拒絶したというのに、天城は口元で笑ってその場を動かない。 「何年も愛由と会えなくて、辛かったな」 「やめろ!もう何でもいいから俺の前から消えてくれ!」 謝罪なんてもういらない。そんな事元々期待もしていなかった。もう俺の人生に関わらないで欲しい。俺の望みはただひとつだ。 「そんな悲しい事言うなよ。好きな子には意地悪したくなるものだろ?たった一度の過ちさえ許せない程、愛由は心が狭いの?」 「なに寝惚けた事言ってんだよ!」 「愛由が、あれぐらいの事であんなに取り乱さなきゃ、俺だってあんな事しなかったんだよ」 「あれぐらいの事じゃ、ねえだろッ!」 「あれぐらいの事だろ。愛由にとっては……」 俺にとっては――――。 誰にも知られたくなかったどす黒い過去を見せ付けられた気がして、カッとなった。頭で考えるよりも先に拳を振り上げて、天城の頬を殴る。パンともバンとも言えない弾ける鈍い音がして、天城の顔が無抵抗に横を向いた。 「これで、気は済んだ?」 ゆっくりとこちらを向いた天城の左頬が赤くて、それだけで俺の怒りは一気に消えて、責められている様な気持ちにさえなった。 「痛いなあ。でも、これでおあいこでいいよね?」 おあいこにできる訳ないだろ。そう思うのに、俺は咄嗟に返す言葉が出なかった。初めてだったのだ、人を殴ったのは。挑発されたとは言え、無抵抗の相手を。 「愛由、やり直そう?愛由だって、俺の事本当は好きだったろう?」 伸びてきた手を無意識にはたき落とす。あり得ない。好きな訳ない。俺は本能で触れられたくない程にこいつに嫌悪感があるというのに。 「会えない期間が長すぎて忘れちゃった?愛由が笑える様になったのって、誰のお陰だっけ?」 「………だまれ」 よかった時の事ばかり言うな。嘘つきの裏切り者だった癖に。 「愛由を地獄から救ってあげたのは、誰だっけ?」 「だまれ……!」 「好きだろ?俺の事」 はっきりと首を横に振る。 「それはおかしいよ愛由。好きにならないのはおかしい」 何言ってんだ、こいつ……。 あのとき、あいつが突然カッターナイフを手に取った時と同じ様な狂気を一瞬で感じた。逃げないと。今すぐに。 「おかしいから、分からせてあげないとね」 ―――でも、間に合わなかった。 逃げようとした肩を掴まれ、何の躊躇もない拳が、鳩尾に命中する。 「離れている間、本当に辛かった。あんなやり方するんじゃなかった……」 それを聞いたのは、為す術もなく身体をクの字に曲げる途中でだ。 「だから今度は、もっとうまくやろうと思う」 うまく……やる………? プツプツという音を聞いて目を向けると、天城が密封袋からハンカチの様なものを取り出している。 「やめ……っ!」 嫌な予感がして声を上げようとした俺の前髪がぐしゃっと握られて、顔が上を向く。と同時に、口元に強く布を押し付けられた。 アルコールの様な揮発性の刺激臭を感じて、咄嗟に息を止めた。でも、いつまでも止めておく事なんてできる訳もなく。 「もう逃がさない」 ばたつかせる手足から徐々に力が抜けていく。やがて、意識も遠退いていく……………。

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