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天国と地獄

ここは天国だろうか。 怠くて怠くて堪らなかった身体が軽い。走り回れそうなくらいだ。 あの開いたドアから駆け出して行けたとしたら、由信に会いに行きたい。ついでに土佐にも。 何をするか?そうだな、由信からノロケ話を聞かされるのもいいし、3人でゲームするのも。そういえば土佐、あの漫画の新しい巻買ったかな……? あ。 でも、天国って事は、俺死んでんのか。 死んだら会えねえじゃん。由信に。土佐にも。 もう、会えないのか……。 * * * 長い夢を見ていた気がする。最後は死んで天国にいた。笑える夢だなあ……。 ぼんやりと目を開いて一番に目を引いたのは、スタンド型のコート掛けだ。何か透明のボトルの様な物がぶら下がっている。 こんなの、この部屋にあったんだ。こんなにいい道具があったのに、何で俺、気づかなかったんだろう。これがあれば、確実にあの天窓は割れただろうに。 ――――え……? 夢と現実と、こんがらがって絡まっていた糸が急速に解れていく。 俺、あいつに―――っ!!! 勢いよく起き上がる。天城は、いない。しかも、ドアが開いている……! 左腕に刺さっていた点滴の針を引き抜くと、ベッドから下りた。そこで初めて気付いた。自分が一糸纏わぬ姿であることに。 流石にその姿で逃げ出すのは躊躇したので、ベッドのシーツを剥いで身体に巻きつけた。 逸る気持ちのまま駆け出そうとしたけど、膝から力が抜けてその場に倒れ込んでしまう。ベッドに掴まって立ち上がって、足を前に出すが、まるでぬかるんだ泥の上を歩く様に不安定だった。足を上げて前へ。その繰り返しが嘘の様にきつく、一歩一歩進むごとに、身体が沈んで行くような感覚だった。 それでもなんとか部屋の入り口までたどり着いて、開け放たれたドアから外に出る。 そこは、広いリビングとダイニングだった。リビングの向こう側の窓の外は、一面緑。 ここは、どこだ……。 外に見えた景色が予想外過ぎて、そんな事している暇はないのに立ち止まってしまう。 あの部屋からは空しか見えなかった。だから、ここは普通に街中のマンションか何かだと思っていた。天城が暮らしている部屋だと。でも、この景色は……。 「寝ていないと駄目じゃないか」 背後から突然かけられた声に、大袈裟でなく肩がびくついた。 余り俊敏に動けない身体だが、それでも大慌てで後ろを振り返る。 「来るな」 俺はジリジリと後退しながら丸腰で天城を威嚇する。 「点滴外しちゃったの?でも、それだけ動ける様になったならよかったよ。本当に心配したんだから……」 眉を下げて言う天城は、買い物袋を手にどこかのんびりとした調子でリビングの中へと歩みを進めた。天城と距離を取りたい俺は後ろにしか行けない。でも、本当に行きたいのは、行かなきゃならないのは、天城が今入ってきたドアだ。きっとあの先は玄関へと続いている。 「昼食の食材を買ってきたよ」 天城は見慣れないロゴのついた買い物袋をダイニングテーブルに置くと、奥にあるキッチンの方へと向かった。 今しかない! 「無理をしちゃだめだ」 背後からかけられた声に追い付かれる前に、と俺は玄関へと走る。足を縺れさせながら、倒れそうになりながら、それでもリビングのドアを開け、その先の吹き抜けのホールも抜けた。 あった! 外からの光が、木目調のスリットから柔らかく漏れている。あの先は、外の世界。ここがどこかなんて関係ない。あいつから逃れられるのなら。 え……。 あと何歩かで、一段低いタイルの上に足が届くという所で、ふと目の前が暗くなった。 「ああ。だから言っただろ?無理しちゃだめだって」 気付いた時眼前にあったのはフローリングで、その少し先に靴下に被われた爪先が見える。 身体が……動かない………。 「愛由はさっき死にかけたんだから。まだ大人しくしてないとだめだよ」 動かない身体では伸びてくる腕から逃げる事もできない。 「こんなに軽くなっちゃって……」 膝の後ろと首の後ろに手が差し入れられる。そして俺を横抱きにした天城が立ち上がった。 俺が自分の身体を支える事さえもギリギリな中必死に走ってきた距離を、天城は俺を抱えていとも簡単に戻っていく。 「イヤだ、下ろせ……」 怠い。口を動かす事すら億劫だ。逃げなきゃいけないのに。大人しくしてたら、こいつの思う通りにされてしまうのに。 俺は結局何も出来ずに、リビングのソファに横たえられた。「ここで休んでてね」と言い残し、天城は傍を離れていった。 逃げないと。 そう思っているのに、身体を起こす力がない。まるでガス欠の車だ。 ソファの背凭れで、天城の姿は見えない。でも、奥の方からジューと何かを焼く音と、堪らない芳ばしい匂いが漂ってきた。 久しぶりに感じる生々しい食べ物の気配。頭の中に、大きな肉の塊が浮かぶ。ナイフで切ると、うっすら赤みの残る断面から滴る肉汁………。 何日も前から忘れていた空腹感が急激に甦る。ステーキ、ご飯、アイスクリーム………。頭の中に食べ物が次々と浮かんで離れない。食べたい……。今、この匂いの元の料理を食べられたら、他に何もいらない。食べたい。もう何でもいいから、食べたい………。 調理の音がやんで、お皿がテーブルに並べられる音がした。俺の耳は天城の動向をずっと追っている。食べたいな……。頭に浮かぶのはそれだけだ。

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