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絶望感
解放されてから1週間。
毎日天城から連絡があるのではとビクビクしていたけど、これまで何の連絡もない。
俺の警戒心も徐々に薄れ、もうすっかり元の生活に馴染んできている。
胃も元のサイズに戻ったのか普通の量が食べられる様になったし、新しいバイト先にも慣れた。こっちのオーナーは厳しくて廃棄をくれないのが残念だけど、雇って貰えて給料が貰えるだけでありがたい。
深夜2時にバイトを終えて、徒歩で家に帰る。
今月分の家賃が払えずに、クレジットカードのキャッシングを初めて使った。ATMみたいな機械で簡単に金が出てくる手軽さを知って、借金地獄に陥る人が世の中に多くいるのも頷けるなあと思った。
―――あの人も、いつも金、金と言っていたから、借金でもあったのかもしれない。俺は一晩幾らだったんだろ………。俺への見返りは、100円のおにぎりかパンがせいぜい3つだった………。コンビニで1時間働くより、安いじゃん………。
嫌なこと思い出したな……。
気を取り直すのに、スマホで時間割を出す。明日は1講目から5講目までびっしりある日だ。
あ………。
目についてギクっとしたのは、5講目。あのゼミだ。3日前もあったけれど丁度休講で随分ほっとした。でも、きっと明日はあるだろう………。あいつが、来なければいいんだけど………。
*
傾向として、嫌な予感程当たるのはどうしてなんだろう。
5講目には、担当教授の他に天城もいた。
『生と死』についてを扱うこのゼミは、オリエンテーションを兼ねた何回かの講義を終えて、俺が休んでいる間にグループワーク形式へと進んでいた。グループのメンバーは自由だったらしく、俺は由信と土佐と同じグループになっている。
テーマも既に決まっていて、『尊厳死』だ。
俺はできれば医療的なテーマから離したかったけれど、もう今更だ。由信も土佐も参考文献を沢山調べてくれていたし、バワーポイントの作成にも踏み出している。
「どう?順調に行ってる?」
結びをどっちの方向に持っていこうか意見が別れている最中、天城が爽やかな講師の顔をして俺達のテーブルに顔を出した。
俺は一瞬でカチンコチンに固まった。
1週間前まで過ごしたあの家での記憶がワーッと一気に押し寄せてきて、胸が苦しい……。
「いやー難しいっす。調べれば調べる程分かんなくなって……」
「そうだね。でも、こういう倫理的な問題は、白黒つけるだけが正解じゃない場合もある」
「うげー。俺、そーいうの苦手……」
「そうなんだ。土佐君はどうしてこのゼミを選んだの?」
「そりゃ仲間がいたからですよ……って、これ教授に聞かれたらヤバイ?」
慌てて口の前で人差し指を立てた土佐を真似る様に、天城もクスクス笑いながら同じ動作をした。
「仲間って、愛由の事?」
「あとよっしーも。ゼミとかで密な付き合いするならこいつらと一緒がいいなあと思って。俺達、高校から一緒なんすよ」
土佐は頷いて続けた。
「でも先生こそ、及川と仲良いんですよね?」
―――え……?
「ああ、君らが出会うずーっと前から愛由の事は知っているし、とっても仲良しだよ……」
意味ありげな言い方。天城からの強い視線を感じるけど、俺は顔を上げられない………。
*
「なんで、天城……先生と、俺の事……?」
天城は、何か言いたげな視線を俺に向けた直後、教授に呼ばれてあっちへ行った。ほっとして力が抜けたけど、完全に脱力できた訳ではない。
「及川が休んでた時、先生に色々聞いたんだ」
イロイロ……?てかあいつ、仕事は休んでるって言ってたのに、大学には行ってたのかよ……。
「天城先生がボランティアで施設の家庭教師みたいな事してくれてたんだろー?及川が先生に特別懐いてたから、いつからか専属になったんだって、楽しそうに話してたぜ?」
能天気な土佐の声を聞きたくないと思ったのは初めてだ。過去の事なんて思い出したくない。俺は、天城に纏わる事全部消してしまいたい………。
「俺ら研究テーマもなかなか決まらなかったからさー、先生が助言してくれてようやくこれに決まったんたぜ。でも天城先生って優しいよなー。分からない事があったら何でも聞いてって、俺らとLINE交換してくれて……」
「だめだ!!」
「………え?」
気づけば大声を出していた俺を、土佐も由信も不思議そうに見ている。あいつ、俺のいない所で土佐達に近づいて何企んでるんだ………!
「先生と、変に親しくするのは……やめた方がいいと思う……」
「へ?何で?」
なんで?………あいつ、異常だから。
どこが?………俺の事浚ってボコボコにして監禁して、それから………。
――――言えない………。
「別に……理由は、ないけど………」
丁度、終業時間のベルが鳴った。
土佐は、俺の言った事を特に気にした素振りもなく片付けを始めている。
「あゆ君、やっぱりあの先生と何かあるの?」
由信が小声で俺に耳打ちしてきた。何かなんてありまくる。………けど、何ひとつ話せる様なものではなくて、俺は小さく首を振ることしか出来なかった。
「愛由」
帰り際天城に声をかけられ肩がひくつく。走って逃げ出したいのに、また身体はカチンコチンになってしまって、立ち止まるしかない。
「これから久し振りに食事でもどう?」
警告音みたいな耳鳴りが酷くなる。だめ。行ってはいけない。
「バイト……あるから、」
「バイト?何時から?」
辛うじて絞り出した言葉に、天城が声を被せてくる。それだけで俺は咎められた様な感じがして、ますます身がすくむ。
「く……9時、から……」
「じゃあそれまで時間あるよね?」
天城の声色に怒りの感情を感じ取っているのは、多分俺だけだ。俺は何も答えられなかったけど、このあと食事に行くのは既に決定していて、ホールで待っていてと付け加えられる。
「あ、そうだ由信君。この間言ってたお店の情報、LINEで送っておくね。きっとそこなら、彼女も満足してくれると思うよ」
「あ、ありがとうございます」
由信は少し顔を赤くして言った。由信まで………。
天城の言葉は俺にはこう聞こえた。
あの動画はいつでも二人にばら蒔けるぞ。俺に逆らうな、と。
「いいなー、天城先生と食事とか、ぜってーいいとこ連れてってくれそう」
「あ、LINE来た。………わ、この店、本当に女の子が喜びそう……」
「どれどれ。お、いい感じ。俺も今度使ってみるかな……」
俺の耳には二人の会話は殆ど入ってこなかった。
これから食事に行って、その後は………。でも、バイトまでだと3時間ないし、食事だけで終わるかも。………いや、そもそも本当に食事に行くのか?俺に殆どお粥しか与えなかったあいつが、俺を食事に連れ出すとは思えない………。
「天城先生ナンパそうな感じもするけど、9時前解散なら心配いらねーな。んじゃ、美味いもん沢山食ってこいよ?」
「それじゃあ、あゆ君、また明日ね」
俺はいつの間にか天城を待たなきゃいけないホールに取り残されていた。
せっかく戻ってきた日常から、あまりに急転直下したこの現実を見たくない為か、俺は夢の中にいるみたいな感覚になっていた。
周囲のざわめきも、エコーがかかったみたいに遠く聞こえて、本当に夢かも……なんて事を思い始めた時に天城がやってきた。
夢の中を歩くみたいにふわふわとした足取りで、駐車場まで誘導されて、車に乗せられる。
バンッ!
些か乱暴に助手席のドアが閉められ、天城が乗り込んだ後の運転席のドアの閉まる音はもっと乱暴だった。
こうして密室になった途端、天城の雰囲気が明らかに変わった。その時になってようやく、俺はリアルな絶望感に苛まれたのだった。
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