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宗ちゃん 2
「お待たせ、愛由」
宗ちゃんが慣れた様子で俺の部屋に入ってくる。俺は当然の様に自分の机の前にもうひとつ椅子を用意して、宗ちゃんがまた当然の様にそこに座る。
宗ちゃんの交換条件だったこの部屋で教えるっていうのは、俺にとっては願ったり叶ったりだった。
一度、他のみんなはどんな様子なのかと見に行った事があるけど、ここの子供達の中には、本気で勉強したいと思う者は少ないのか、せっかく宗ちゃんが来ても、女子は勉強そっちのけで宗ちゃんに話しかけるばっかりだし、男子は教わろうとする素振りもなくて、勉強しようって空気感は皆無だった。
だから、ここでマンツーマンで集中して教えて貰えるなら、俺にとって悪い条件なんてひとつも見当たらなかった。時間は、みんなを教えた後だから少し遅めではあったけど。
「出来たよ、宗ちゃん」
「よし、見せてね」
俺達が、「宗ちゃん」「愛由」って呼び合う様になるまでに、そう時間はかからなかった。初めに呼んでいた「天城さん」は、距離を感じると言われて、「宗ちゃん」になった。
その事だって、今になって思えば結構強引だった。宗ちゃんが気に入る呼び方を俺が考え付くまで、宗ちゃんは何度でも俺にダメ出しをした。但し、恫喝も暴力もなかったから、俺はその頃宗ちゃんの異常さなんて全く気付きもしていなかった。
「あれ………もうこんな時間……!」
ある日の事。
夜も23時を回って、宗ちゃんが慌てた声を上げた。
宗ちゃんは、いつも残って22時までだった。
22時には、いつも通り消灯時間のアナウンスがあったから、当然宗ちゃんも気付いていて、その上で俺に再び課題をやらせているんだとばかり思っていた。
俺がどうしたの?って顔で宗ちゃんを見上げていたら、宗ちゃんは続けた。
「愛由が飲み込み早いから、つい夢中になっちゃったなぁ」
「何か予定でもあったの?」
「そうじゃないよ。ただ、ここ、22時過ぎると玄関が閉まっちゃうんだよ」
そうだったんだ。玄関が閉まるのか。知らなかった………って。
「え、じゃあ宗ちゃんどうするの?」
「どうしよう。困ったな……」
「夜勤の人に、相談してみたら?」
「うーん。でも、きっと怒られるよ。怒られて、もうボランティアに来るなって言われたら、困るなあ……」
うん。それは俺も困る。
宗ちゃんに勉強を教わる様になってから飛躍的に成績が伸びて、この間の模試では第一志望のA高がC判定だった。それに、職員の人達は俺の過去を知ってか腫れ物に触るみたいな対応だし、子供達は乱暴者ばかりで仲良く出来そうな奴はいない。宗ちゃんだけなのだ。俺に普通に、分け隔てなく接してくれる人は。だから、俺にとって宗ちゃんの存在は、失いたくないって思う程に大きくなっていた。
「明日の朝になれば、玄関開くんだよなあ……」
宗ちゃんがそう口にしたのは、絶妙なタイミングだった。
「明日の早朝、職員の人が忙しい時間にそっと帰れば、きっと気づかれなくて済むんだけど」
こうも続けられて、宗ちゃんが来られなくなるのは困る俺の返事は、ひとつしかなかった。
「ここに、泊まる?」
「え、いいの?愛由」
いいの?って聞かれて、大丈夫かな?って自問する。
俺は、何を隠そう男の人が結構怖い。特に、年上の大人の男。
施設の職員は男が多くて、俺が嫌いなピンポイントの年齢の、所謂おじさんも多くて、そんな人とこの部屋で二人きりになった時、色々思い出して、わーってなってしまった事がある。だから、俺の部屋には職員はほぼ入ってこない。隠れるのには最適だ。
………ああ違う。そうじゃなくて、俺は宗ちゃんと二人きりになるのは大丈夫だとしても、果たして夜も一緒に過ごして、眠る事ができるのだろうか………。
「愛由、もしかして怖い?」
暫く考え込んで黙っていたら、宗ちゃんが言った。
え?怖い?なんでそんな事………?
「違ったならごめん。けど、愛由はとても俺に似ていると思ったから………」
「似てる………?」
「うん。俺、実は、幼少期に父親から虐待を受けていてね。……その、言いにくいんだけど、性的な…………」
言い終えた後、宗ちゃんは些か大袈裟とも取れる程に呼吸を乱して、胸を抑えた。
でも、俺は思った。大袈裟なんかじゃない。思い出した時にそうなるのは、俺は分かるから。俺だけは、分かるから。
俺は、宗ちゃんの頭をそっと撫でた。俺はこの時、自分が子供でよかったと思った。もし大人だったら。おじさんだったら。きっと宗ちゃんを慰める事が出来なかったから。
宗ちゃんは、ううっと嗚咽を漏らしながら、俺の胸に抱きついた。俺は、宗ちゃんが落ち着くまで、ずっと頭を撫でていた。
辛かったね。もう大丈夫だよ。
口には出せなかったけど、俺が母親からかけて貰いたかった言葉を心の中で唱えながら。
*
「俺も、虐待、されてた」
俺が宗ちゃんに打ち明けたのは、あれから数週間後だ。
自分が虐待されていたことは明白なのに、それを自分で声に出して認めるのは、結構辛かった。一番愛して欲しかった人に愛されなかった事実は、とても悲しいし、恥ずかしい。
「やっぱりそうか……」
そう言って宗ちゃんは、俺がそうしたみたいに、俺の事を胸に抱いて、頭を撫でた。
「辛かったね。相手は?」
「いっぱいいる。母親には、育児放棄……されてたし、金稼げって言われて………」
今日からあんたに働いてもらう。
簡単な事よ。
このおじさん達の言うことを聞いていればいいの。
能なしのあんたにも出来る唯一の仕事。
自分の食いぶちくらい、自分で稼がないとね。
あーあ。あんたが女の子だったら、もっともっとママの役に立てたのにね。
私元々、女の子が欲しかったの。
あんたなんか、いらなかったの。
生々しいのは、おじさんたちから受けた暴力。飢えの苦しみ。でも、思い出して一番壊れそうになるのは、母親から愛されなかったという事実。
気付いたら俺も、この間の宗ちゃんと同じように嗚咽を漏らして泣いていた。
「大丈夫だよ。愛由は生きていていいんだよ」
俺が何か口走ったのかもしれない。宗ちゃんはそれに返事をくれただけだったのかもしれない。でも、俺がこの時一番欲しい言葉をくれたことには違いなかった。
*
沢山、涙が枯れるまで泣いて、ようやく落ち着いた俺に、宗ちゃんはいつも淹れてくれる温かいお茶をくれた。
宗ちゃんがここに泊まるのは恒例になりつつあった。前回、結局帰るときに職員の人にバレてしまったらしく、でも、宗ちゃんの人柄所以か咎められず、寧ろ俺が元気になるなら一緒にいてやって欲しいと言われて、泊まるのも今では施設公認になっている。
「それで、お父さんは……?」
「父親は、小さい頃に死んだ。あんまり覚えてないけど……多分、凄く優しかった。花火を見に行った事があって、俺を肩車してくれたんだ……。ニコニコしてて、あの頃は母親も笑ってたな………」
俺の中に唯一ある幸せな家族の光景。思い出すのはこの場面ばかり。もっと沢山の事を覚えていられたらよかったのに。
父親は、短い間だったけど、俺を愛してくれてたと思う。あの人が死なずに生きていてくれたら、俺はもっと幸せに生きてこられたのかな。死んだ人間にすがったってどうしようもないけれど、でも俺は父親がなったと聞かされていた夜空の星にすらすがらなければならない程に、生きるのが苦しかった………。
「そうか。愛由、よく話してくれたね……。俺と一緒に、乗り越えていこう………」
泣き疲れたのか、お茶を飲んでいる途中だというのに、頭がこっくり揺れる程の睡魔に襲われた。宗ちゃんの助けを借りて、ベッドに行く。部屋には、ソファなんて気の利いた物はないから、寝るのはこのベッドひとつ。それを宗ちゃんと二人で使う。
でも、危惧してたみたいに眠れないなんて事は一度もなくて、毎回毎回、宗ちゃんよりも先に眠ってしまう。
「おやすみ、愛由」
おやすみ………。もう声にならないから、心の中で。せめて夢の中では、苦しい思いをしませんように。そう願いながら………。
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