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居酒屋バイト 2
「俺、なんかミスった……?」
ロッカールームの前で及川を振り返ると、及川は不安そうな顔をしていた。
「いや、いやいやそうじゃねーよ」
そうじゃないのか?いや、厳密にミスではないけれど、過剰サービスを求められるがままするなって言おうとしてた訳で、ある意味注意をしようとしてたんだけど……。
「よかった……。俺、日本酒間違ったかと思った。日本酒って難しいんだよな。冷酒と、冷やと、お燗と………」
教わった事を指折り羅列する及川は、一生懸命で確かに可愛い。こりゃあ、可愛がられるし、からかいたくもなるし、俺、ちょっときつく言わなきゃって思ってたのに、こんな可愛くほっとされたら、言いづれー!
「うん、冷酒は、冷蔵庫の中のあれで合ってるけどさ、でも、ほら、酌まではしなくていいから……」
「……そうなのか。余計な事しちゃったな……」
及川はしゅんとした。何も、そこまで落ち込むことないぜ。いや、もう、何なら別に注いでもいいんだぜ。けどさ、あんまり何でも要求呑んでるとさ、エスカレートしたら困るじゃん?
そんな様な内容も交えつつ、俺は世間知らずな及川にも理解できるように、居酒屋のホール担当者の業務内容について、特にやらなくていい事についてを重点的に、優しく噛み砕いて説明した。
「そうか……。俺、お客に言われる事、結構そのまましてたかも……。いけなかったのか………」
「……でも、及川は凄く頑張ってるし、よくやれてるよ!さっき店長も誉めてたし、その部分だけちょろーっと注意してくれたら、完璧!」
あ、やっぱり、さっきの酌とか以外にも、俺が見てない所で何かとやらされてたんだ。って思ったけど、それよりも及川がまたしゅんとした事が気になって、俺は慌ててフォローした。頑張っているのも、店長が誉めてたのも嘘じゃないし。
「そうか、よかった。土佐がせっかく紹介してくれたのに足引っ張る訳に行かないから」
あからさまにほっとしま表情を浮かべた及川は、俺を気遣う言動も相まって、非常に可愛い。
「4日もバイト続けられてるの、ここ最近では初めてなんだ。土佐のお陰」
そんな普通の事を弾んだ声で報告する及川は、なんて健気なんだろう……。可愛いすぎてなんか、抱き締めたくなる………。
「……電話とか、きてねえのかな………」
及川の顔はまた不安そうに曇った。
「……店長何も言ってねーし、気にすんなって」
そう言うと、及川はまだ不安そうな顔をしてたけど、頷いた。
……本当は、電話は来ている。どうもイタズラ電話の主は複数人いるらしいと店長から聞かされた。そのどれもが及川の事を犯罪者と断じて、辞めさせろと抗議するものだ。店長には俺から、及川は何もしてないし、見ての通り一生懸命の真面目な奴だと伝えて、店長も信じてくれて気にしないと言ってくれている。
相手にされない事で、イタズラ電話の主が諦めればいいのだけど。と言うか、及川に何の恨みがあるのか知らないけど、卑怯なやり方で及川を陥れようとするそのやり口は本当に腹が立つ。今度俺が電話に出たときは怒鳴ってやろうと、俺は密かに心に決めている。
ホールには、及川に構って貰いたくて必死な加奈と、バイトの先輩で年上でもある加奈の下らない話に律儀に応答する及川の姿があって、なんか平和で和む。
後から来たバイトリーダーの男の先輩も、及川に悪い印象なんてこれっぽっちもないらしく、「素直で覚えがよくて助かる」なんて言っていた。他のバイトメンバーも、及川を悪く言う奴はいない。
及川は綺麗すぎるのと、あまり笑わないせいで冷たく見えるけど、こうして一緒に仕事をしたら、及川の真面目で気遣いのできる性格はすぐに分かるし、そう言えば高校に入ってすぐの頃に見せていた、光を失ったみたいな荒んだ目つきも、いつの頃からかあまり見せなくなっていた。
及川の傍にいられる様になってからはあまり及川を客観的に見てこなかったけれど、こうして改めて見てみると、及川はあの変な噂さえなければ人から嫌われる要素なんてない。もっと言えば、世間知らずで天然っぽい所は愛すべきギャップだし、親しくなって気の抜けた姿なんか見せられて、おまけに無防備に触れられたり近くに寄って来られたりしたら、俺もそうだった様にきっとみんなイチコロだと思う。
あの噂は、高校だけに留まらず大学にも直ぐに蔓延した。大学は高校からのエスカレーター式とは言え、倍以上も人数が増えているのにも関わらず、だ。
真実ならまだしも、殆ど出鱈目に近い事がこんなにも蔓延ること自体がそもそもおかしいのだ。バイト先にかかってくる電話と同じく、誰かの強い悪意を感じずにはいられない。
*
「及川、誰かの恨みを買った覚えない……?」
バイトの帰り道。及川に質問してみたら、及川は少し目を泳がせた。心当たり、あるのかな………。
「イタ電もそうだけどさ、及川の変な噂あんじゃん。あれも、流してるの同じ奴なんじゃないかと思って」
「噂も………?」
「そう考えた方が自然じゃね?高校だけならまだしも、大学行ってまで同じデマの噂がつきまとうって、おかしいじゃん」
「……そう、だったんだ………」
及川はその事には思いも至っていなかったのか、目を丸くした。
「確証はねーけどさ。でも、心当たりあるんなら、そいつに直接やめろって言うのが一番手っ取り早い気がすんだけど」
「…………」
「あ、勿論、一人で行けとか言わねーよ。俺でよかったら付いていくし、何ならケーサツに相談してもいーと思うぜ」
もし噂まで同じ奴らだったとしたら、高校から今までずーっと及川に執着してるってことで、ある意味ストーカー案件だ。そうでなくても、及川の動向追ってそのバイト先全部に電話かけるとか、それだけで異常だ。
「………無駄だよ」
「え?」
及川の声は小さかったけど、確かに聞こえた。無駄って、どういう……。
「………これ以上続いたら、俺が何とかする。土佐に心配かけて、ごめん」
「でも……」
「俺の問題だから」
一人じゃ心配だ。そう伝えたかったけど、及川は話を終わらせた。触れられたくない事なのかもしれない。そう思うと俺もそれ以上追求出来なかった。
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