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ムカつく
首輪に繋がれない生活は快適だった。
好きな時にトイレに行けるし、気晴らしに家の中の探索もできる。宗ちゃんからは、「いつも見てるから」と言われてるし、玄関の扉は宗ちゃんしか開けられない。そうでなくても逃げ出す気はないけど。
「首輪の痕、消えちゃったね。俺、けっこう気に入ってたんだけど」
長い間ずっと首輪を巻かれていた首には、汗疹みたいな被れが出来ていて、ちょうど首輪の線に沿って赤くなっていた。俺は漸くなくなったそれにほっとしていたけど、宗ちゃんは別らしい。
「代わりに、キスマークつけようか」
「え……。でも、もうすぐ………大学、始まる、から……」
「だったら尚更つけないとね」
「え、ちょ……や、……!」
首輪の形に被れた首の回りに、宗ちゃんが宣言通りきつく吸い付いてくる。そんな所、夏場じゃどうしたって隠せないのに……。
「いち、にい、………あはは、五つもつけちゃった」
「そんなに……」
「いいじゃないか。隠す事なんてないだろ?愛由は、男同士とか恥ずかしいって思うタイプ?」
「…………でも、宗ちゃん大学では先生だし………」
「ああ、俺の心配をしてくれてたの?愛由は優しいね。けど、愛由は18才だからエッチしても犯罪じゃないし、大学は別にバイトみたいなもんだから居づらくなったら辞めればいいし」
犯罪じゃない……のか。元々警察に頼るつもりはなかったし、頼ったってどうせ誰も俺の事なんて信じてくれないから意味ないって思ってるけど、こんな風にこれが悪いことじゃないって断言されたらなんとなく落ち込む。誰から見ても、俺は望んでこうしてるって思われるって事だから………。
でも、宗ちゃんが大学来なくなったら、それは俺にとって都合がいいかも。そう思っていたけど……。
「だからいっぱいつけておこう」
また吸い付かれて、俺はやっぱり嫌だと思った。宗ちゃんと付き合ってること、土佐には知られてしまったけど、でもやっぱり深く知られたくない。キスマークなんてつけて大学に行ったら、知られてる土佐にどう思われるかって考えると気が気じゃなくなる。それだったら、別に宗ちゃんが大学にいたっていい。どうせ毎日一緒なのだから、今更だ。けど、大学が始まるのはあと3日後。流石にそれだけあれば消えるだろうと、この時は思ってた。
*
新しい家からは、電車と地下鉄を乗り継いで大学まで行かなければならなかった。新学期が始まる段になって、宗ちゃんは玄関の鍵として俺の指紋も登録してくれた。だから、実質出入りは自由だ。鎖で柱に繋がれていた頃に比べると雲泥の差だけど、宗ちゃんから逃げられる訳ではないから、自由を手に入れた実感とは程遠い。
宗ちゃんから渡された多分また高いであろう服を着せられて、髪までとかされた。靴下から靴まで全部コーディネートされて、そんな所からも俺の意思みたいなものは悉く奪われる。
服装に特段拘りはないけれど、どっちかというと今着てる服よりはカジュアルで緩くて楽な格好が好きだし、靴もスニーカーがいい。そんな優先順位の低い主張で宗ちゃんを不機嫌にはしたくないから言わないけど。
教室に着いたのは、講義が始まる少し前で、もう殆どの席が埋まっていた。いつもの癖で由信を探してしまって、遠く前の方にその後ろ姿を見つけた。珍しく隣に誰か座っている。
由信がちゃんと来てる事に安心して、俺は空いている後ろの席に座った。
「よお」
テキストを鞄から取り出していたら、通路から少し不機嫌そうな聞き覚えのある声がした。
見上げると、思った通り通り、そこには土佐がいた。
土佐は、さっき仲間達とあっち側にいたのを由信よりも先に見つけていた。と言うことは、わざわざここに来たって事………。
「………よお」
俺は気まずくて、土佐と視線を合わせずに同じ挨拶を返した。
土佐には色々言うべきことがある。世話になったって事とか、バイト先に迷惑をかけてごめんって事とか、本当に色々。
けど、この間宗ちゃんに連れられて土佐の家に行った時は、明らかにおかしな態度をとってしまったし、それに、あの後車の中でしてた事や、宗ちゃんに言われた通り、土佐と会ってる時既におかしな事をされていた事を知られているんじゃないかと思うと、とても真っ直ぐ土佐を見れない。
「居酒屋、あれからは何ともない……?」
土佐がじっとこっちを見てくるから、俺はその視線に耐えられなくなって当たり障りのない話題を振った。俺が宗ちゃんの元に戻った後に何もない事は、聞かずとも分かる。宗ちゃんは否定したけど、犯人は間違いなく宗ちゃんだから。宗ちゃんはずる賢いから、落書きも電話も、実行犯は別の誰かなんだろうけど、主導は言わずもがな。
「あー、及川がやめてからピタリとやんだぜ」
「そ……か。よかった……。本当、ごめんな………」
「嘘つかれてたのは正直ムカついた。及川そんな奴じゃねーと思ってたし」
土佐は、「ムカついた」の部分に取り分け力を入れて言った。
ああそうなんだ。土佐がわざわざ俺に話しかけにきた理由。それは、ムカついた事を伝えたかったからだ。
「ごめん………」
「なんか言い訳とかねーの?」
「……………」
「そーかよ。………で、『宗ちゃん』とは相変わらず上手くいってんの?」
土佐の言葉に棘を感じる。でも、怒って当然だと思うから、仕方ない。
「………、」
「あー……いーや、やっぱ、答えなくて。及川のその格好と……あと、その首見れば一目瞭然だし」
『首』と言われて、俺は慌てて手で首筋を抑えた。隠すってことは疚しい事があるって事で逆効果なのに、そこまで頭が回らなかった。
宗ちゃんは、嫌がる俺を無視して、時には叩いて黙らせて、毎日痕をつけてきた。「マーキングだよ」って笑いながら。だから、俺の首にはまだ沢山のマーキングが残っている。
「お盛んなのはいーけどさ、んな目立つとこにつけさすなよ。見てるこっちが恥ずかしーわ」
土佐は、バカにした様に言った。胸がズキズキする。
土佐はいい奴で、ノリがよくて、優しくて、思い遣りのある奴だ。こんな物言いは初めて聞いたし、土佐にそうさせるだけ俺は土佐を怒らせたんだ、嫌われたんだ………。
「あとさ、すげームカつく」
言われた瞬間、ひゅっと息が止まった。
とどめを刺された。俺死んだ。
息の吐き方が分からなくなって、吐けないから吸えなくて、苦しくなって気が遠くなって、立ってる事ができなくてズルズル椅子に腰掛けた拍子に、漸く息が吸えた。
周りのザワザワした喧騒がいきなり耳に入ってきて、土佐はもう隣にいなかった。
見回してみると、俺はどれくらい息が吸えなかったのか分からないけど、土佐は既に仲間達の所に戻っていて、俺から見えるのは後ろ姿だったけど、肩が揺れていた。
笑ってるんだ。
そう思った途端、聞こえてくる楽しそうな笑い声全部が土佐の声に聞こえて、俺は初めて集団の中に一人でいることに居心地の悪さを覚えた。強い孤独感に、押し潰されそうになった。
俺、数少ない大切な人をみんな失った。
由信も、土佐も。
俺はまた何もない人間になってしまった。
元々そうだったからゼロになっただけなのに、何も持っていなかったあの頃よりも不幸に感じるのはどうしてだろう。
あの頃だって、俺を苛める人間はいて、夜な夜な知らないおっさんのちんこをくわえてた。今は、特定の人間の。
そう。何も変わらないじゃないか。
俺は元々こうだった。
だからマイナスなんかじゃない。
これまでが、恵まれ過ぎてただけ。
これが俺なんだ。
死んだ方がましな程悲惨な人生。
それでも死なずに意地汚く生きていく。
それが、俺なんだ。
俺、なんだ……………。
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