75 / 185
ナイフ
昼休み、休憩しようとラウンジに向かう途中で、由信とすれ違った。
由信の隣には、講義の度に由信と一緒に座ってた男がいる。前髪が目に入りそうなくらい長くて由信とはタイプが違いそうだけど、友達になったのかな。あいつ、元々この学科にいたのかな。いたような気もするけど、分からない。由信と土佐以外には殆ど興味がなかったから、覚えてない。けど、編入生の紹介もなかったから、俺が知らないだけで元からいたんだろう。
由信は、擦れ違う時に俺をチラッと見て、顔の前で片手を縦に置いてごめんのポーズを一瞬取った。
美咲さんの手前、表向きは俺との付き合いをやめることにしたんだから仕方ないし、わざわざ謝らなくても分かってるのに。
けど、そんな律儀で素直な由信に、俺の胸はまたズキリと痛んだ。こんなに純粋な由信を、俺は裏切ってしまった。もしも普通に会えるとしても、もうどんな顔で接すればいいのか………。
「よー」
午後の講義も終わり、帰り仕度をしていた時、知らない奴から声をかけられた……と思ったら、さっき見た奴だった。由信と一緒にいた、前髪。
「話すの初めてだよなー。俺、岩崎。よろしく、愛由君」
「…………」
握手を求められたけど、手は出さない。いきなり馴れ馴れしくてなんか気持ち悪いし、知らない奴に突然下の名前で呼ばれるのもいい気はしないから。
「ちょっとあっちで話さねえ?」
「悪いけど………」
「ふーん……。まあいーや。……じゃーな」
………変な奴。
この時思ったのはただそれだけだった。
*
大学から真っ直ぐ家に帰り、ただただ宗ちゃんの帰りを待つ。
土佐も由信も失った俺には、楽しい事なんて何もなくて、意思を踏みにじられて虐げられるだけの人生には絶望しかない。
いっそ死んだら楽になるかな。死んだら、星になった優しい父さんに会えるのかな。
俺が死んだら、宗ちゃんは俺の死体まで蹴り飛ばして怒りそうな気がするな。………想像したら少し笑える。
土佐はどう思うだろう。悲しんでくれるのだろうか。また痴話喧嘩かよ、ムカつくなって思われたりして。
由信は………。由信は、多分悲しむだろう。俺が酷い裏切りをしたのを知らないから………。
考えながら、足が自然とキッチンに向いていた。
調理台のストッカーには、宗ちゃんが料理に使う包丁が3つ差さっている。
その内のひとつ、柄が一番長くて大きいものを手に取る。
キン、と金属が擦れる音をさせながら、ピカピカに研かれたナイフが目の前に表れて、その想像以上の鋭さにクラクラと目眩がした。
これで、頸動脈を切れば、きっと死ぬ。死ねる。今なら、誰もそれを止める人もいない。この手を首に持っていって、押し付けて、ナイフを引けば、俺は簡単に…………。
………カラン!
ナイフが床に落ちた。
同時に、俺の身体もストンと床に落ちた。
身体がカタカタと震えていた。
怖い。死ぬのが怖い。生きていたって、俺には何もないのに。生に執着する理由もないのに、どうしてこんな…………。
死ぬことは、空の星みたいに輝いて見えるのに。
生きることは、暗いトンネルの中を歩くように不安で寂しくて苦しいのに。どうして…………。
ツンとしたと思ったら、床にポタポタと透明の滴が零れ落ちていた。自分の意地汚さに心底嫌気が差して、情けなくて虚しい。涙が止まらない。
*
夜になって、玄関の開く微かな音がした。宗ちゃんが帰ってきた。
涙の跡はもう残っていない筈だけど、念のために袖でごしごし目元と頬を擦る。
「……おかえり、宗ちゃん」
駆け寄る俺を見て、宗ちゃんは優しく微笑んだ。
「ただいま、愛由」
そのままぎゅーっと抱き締められて、また泣きそうになった。
大学へ行けば、宗ちゃんから少しの間だけでも解放されれば、気が楽になると思ってた。けど、実際は逆だった。由信への罪悪感に押し潰されそうになったし、土佐から軽蔑され決別されて、酷く悲しかった。
ここに閉じ込められていた時よりももっともっと孤独で、死んだ方がましだと思うほどに苦しかった………。
「愛してるよ」
乾いたスポンジみたいに。宗ちゃんの囁きが俺の中に吸い込まれて、満たされていく様な気がした。
「愛してる」
「宗、ちゃん………」
宗ちゃんは俺を愛してくれる。必要としてくれてる。俺、何もない訳じゃない。宗ちゃんに、愛されてる………。
俺が背中に回した手に力を入れたら、宗ちゃんはクスッて笑って、また「愛してる」と囁いてくれた。
俺にはもう宗ちゃんしかいない。宗ちゃんを愛したい………。
ともだちにシェアしよう!