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癒す
「おかえりなさい」
「ただいま」
今日もバカみたいにアリスの格好をして、いつもより遅めの帰宅だった宗ちゃんを出迎える。
機嫌の悪そうな宗ちゃんにしゃぶる様命じられたから、跪いて言われた通りにした。
えずきながらもちゃんと最後までやり遂げて、宗ちゃんのを溢すことなく全部受け止められた事にほっとしつつ、それでも気を緩めない様に自分を鼓舞する。
今日は、今日こそは、宗ちゃんを好きな自分を演じきるんだ。
すっきりして機嫌のよくなった宗ちゃんがご飯を作ってる間も、テーブルに料理が並べられてる時も、何度も何度も自分に言い聞かせた。
「今日はお父様が病院に来てね……」
いただきますから暫く経って、リラックスした様子の宗ちゃんが「疲れたよ」と付け加えて言った。
苦笑しながら『お父様』の話ができるなんて珍しい。どうやら今日ここまでの俺の対応は完璧で、夕飯の段取りや味付けなんかの細々した事も、全部宗ちゃんの思い通りに進んでいる様だ。
宗ちゃんから『お父様』の気配がする日は、大抵すこぶる機嫌が悪くて、酷く当たり散らされる事も少なくない。
けど、無理もないと思う。宗ちゃんのお父さんは宗ちゃんを乱暴した張本人なんだから。宗ちゃんは「いつまでも過去に縛られたくない」みたいに言っていたけど、いくら割り切ろうとしたって心が乱れるのだろう。
俺は、その気持ちだけは宗ちゃんに共感できるから、癒してあげたいって心から思った。
「お疲れ様、宗ちゃん。お風呂上がったらマッサージでもしようか?」
宗ちゃんは俺の提案が意外だったのか、一瞬驚いた表情になった。そして嬉しそうににっこり笑った。
「いいね、それ。楽しみだ」
宗ちゃんは食べ終わった食器を下げると、すぐに浴室に行った。
俺は、その間下げられた食器を洗うことにした。
いつもは宗ちゃんがさせてくれないけど、もうチャーリーは帰った後だし、宗ちゃんが疲れている時くらいやったっていいだろう……やった方が宗ちゃんは喜ぶだろうって思った。
参考にしたのは、及川のおじさんおばさんだ。
おじさんは、おばさんが疲れている時は必ず食事の後片付けをしていたし、お風呂上がりにマッサージをしてあげることもあって、おばさんは嬉しそうにしていた。
だから、俺も同じことをすれば宗ちゃんは喜んでくれるだろうと思ったし、俺の『好き』も疑われなくて、今日は叩かれずに済むかもしれないとも思った。そして、宗ちゃんと俺も、あの二人みたいな関係になれればお互い幸せなのに、とも少し思った。
「あれ、なに愛由。皿を洗ったの?」
風呂から上がった宗ちゃんは、シンクの中が綺麗になってる事にすぐ気がついた。俺は、誉めてもらえるのかと思って、少し得意になって頷く。
「そんなの明日メイドにやらせればいいのに」
それなのに宗ちゃんは全然喜んでもくれなければ、誉めてもくれずに、唐突に俺の手を掴むと、繁々と眺めた。
「あーあ、少し赤くなってる。あの洗剤強いから、愛由の繊細な肌にはよくないんだよ?このすべすべの手がカサカサになったらどうするの?今度からもう勝手なことしないでね」
宗ちゃんの口調はまだ優しいけど、視線は冷たかった。勝手なことして俺を煩わせるなって言ってる。俺はいつもの条件反射で小さくごめんなさいと呟く。
せっかくずっといい調子だったのに、余計なことしちゃった……。
鉄拳制裁も覚悟して歯を食い縛っていたけれど、予想に反してそれ以上咎められる事はなくて、手を引かれ連れて行かれた先も、地下室じゃなくて寝室だった。
「それじゃあお願い」
宗ちゃんがそう言ってベッドに俯せになった。
………あ、そうだった。俺、マッサージするんだった。
一瞬忘れてたことを思い出して、今度こそ宗ちゃんを喜ばせよう。そして、あわよくば疲れてる宗ちゃんがそのまま寝てくれたらいいな……なんて都合のいい事を考えながら、宗ちゃんの肩に手を置いた。
自分がされたことも、誰かにしてあげたこともないから、完全に見よう見まねだけど、自分が揉んだら気持ちいい肩回りや首を、指や掌の骨を使って優しくほぐしていく。
「うん、いいね。毎日やってもらいたいくらい……」
宗ちゃんが枕のせいでくぐもった声で言う。
今日の宗ちゃんは、本当に、怒る気力もないくらい疲れているんだ。『お父様』に会ったんだから。きっと辛い記憶だって思い出したりしただろう。何せトラウマの当人だ。俺がこのアリスの衣装を見る度に思い出す記憶よりも、もっともっと生々しいものを感じてしまったに違いない。
俺は、遠い昔に宗ちゃんを抱き締めて頭を撫でたあの時の気持ちに返って、宗ちゃんの背中を撫でた。
思った。きっと今日は「愛が足りない」って怒られることはないだろう。だって、俺は今宗ちゃんを愛していないけど、同情はしてる。いつもみたく、恐怖と嫌悪だけじゃない。
宗ちゃんがこうして怒らず穏やかでさえいてくれたら、宗ちゃんと同じ様な燃えるような情愛は返せなくとも、同じ苦しみを味わった者として共感し、情を傾ける事だってできるのに………。
そう考えていた時、宗ちゃんが身動ぎした。
顔を反対側に向ける。ただ、それだけの動きだった。それなのに、それだけで俺の心臓は一拍ずれた上に早鐘の様に鳴って暫く収まらなかった。
怖いのだ。
いつ、「気に入らない」と言われるか分からない。
何が引き金になって機嫌を損ねるか分からない。
俺が、いくら一生懸命にやっても。
いくら喜ばせようと頑張ってみても。
宗ちゃんが気に入らなければ何の意味もなさない。
それどころか、殴られたり怒鳴られたりする切っ掛けになる。
怖いのだ。
俺はやっぱり宗ちゃんが怖い。
あの日から。宗ちゃんの事好きじゃないんだってはっきり自覚した日から、毎日宗ちゃんには「愛が足りない」って言われてお仕置きされてる。鞭で叩かれ、殴られ、もう身体中痣だらけだ。
それなのに、そんなに俺の事傷だらけにしてるのは宗ちゃんなのに、洗剤によるほんの僅かな手荒れを気にするのが、俺には不思議でならない。
多分俺には一生かかっても宗ちゃんの考え方は理解できなくて、だから結局怒られ続けて、殴られ続けて、ずっとずっと怖いままなんだ。宗ちゃんがずっと穏やかなんて、そんなのあり得ない。幻想だ。もし万が一そうなったとしても、俺はもう取り返しがつかないくらいに宗ちゃんの事が怖くて堪らない…………。
マッサージを始めて30分程経っただろうか。宗ちゃんの呼吸が深くなってきた。
俺は息を潜めて、けど手の力は緩めずに懸命に宗ちゃんの背中を解した。そして、宗ちゃんの呼吸がもっと深くなって、規則正しくなっていったのを見計らって、ほんの少しずつ力を弱めていった。
息を殺して、そっと手を離す。そのままの体勢で暫く宗ちゃんの背中をじっと見る。そこが上下する間隔は変わらない。
…………眠っている。
俺は息を殺したままそろりそろりとベッドから降りて、寝室を出た。ドアをそーっと音が鳴らないように閉めて、そうして、ドアから少し離れた所まで歩いてから漸くふーっと息をついた。
今願う事はただひとつ。
どうかこのまま、出来るだけ長く眠っていますように。出来ることなら、明日の朝まで目覚めませんように。
強く強くそれを願っている自分を顧みて、改めて思うのだ。
俺と宗ちゃん、二人ともが幸せになれる未来などないと言うことを。
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