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ミスター

身体が軽い。 昨晩は、ぐっすりとまではいかなくても普段と比べると嘘みたいによく眠れた。身体に生々しい痛みもなければ、ぐったりと意識を失うまで追い立てられる事もなく安らかに眠ったのは本当に久しぶりだった。 「あ、愛由君!」 学内に入ってすぐ、あまり会いたくない男、岩崎とばったり会ってしまった。今日はとても気分がよかったというのに……。 「なあ」 無視してそのまま通り過ぎようとした腕をぐっと引かれる。 「……なんだよ」 「知らないのかもだから教えておくけど、今日愛由くんが取ってる午前の講義、全部休校だよ?」 「え……?」 「マジだよ。昨日掲示板見なかったの?」 掲示板……は、見てない。けど、何でこいつ……。 「何で俺が取ってる講義知ってるんだよ」 「だって愛由君、由信と取ってる講義全部一緒じゃん」 そういう事か。 岩崎が『知っていた』理由に納得したところで、早々に掲示板の確認に向かう事にした俺の後ろから、 「あ、待って待って」 なぜか岩崎がついてくる。もう放っておいて欲しいのに。 「な?俺の言った通りだろ?」 小さな休校の張り紙を二つ確認した俺に、岩崎が得意気に言った。 「愛由君、これからどうすんの?」 ………どうしよ。午前中いっぱい時間があるなら、本当は家に帰ってまたひと眠りしたい。 いつもよりいっぱい寝たのに……寝たからこそなのか、身体が貪欲に休息を求めてくる。けど、定期券は買って貰えてなくて、ギリギリの交通費しか持たされてないから、帰ったら午後からの講義を受けに戻ることが出来ないし……。 「なあ、何もないなら家来いよ」 「はぁ?」 会話なんてするつもりはなかったのに、あまりにも岩崎がさらっと自然にそう言ったものだから、素で聞き返してしまう。 「俺んちで休憩しない?家、すぐそこだし」 いやいや、意味わかんない。何で俺が友達でもなくて、しかもちょっとした因縁のある岩崎の家に行くと思うんだ。 「……遠慮しときます」 若干引いて、思わず敬語になったけど、岩崎はそれを気にする事もなく続けた。 「けど、愛由君家遠いんだろー?しかも友達もいないし、ここで何すんの?疲れない?」 「別に、課題とか……」 答えながら、何で俺の行動をこいつに説明しなきゃなんねーのって思ったから、尻切れトンボで黙りこむ。 何だよこれもスパイ活動の一貫か?あ、でもこいつ最近……。 「俺あれからずっとチクってねえよ。けど、疑われて結構大変なんだぜ~。何せ最近はミスターが随分ご執心みたいだし。な、彼氏、相変わらず?相変わらず、愛由君は好きでもない彼氏に酷い事されてんの?かわいそーに。けど、俺のお陰でちっとはましだろ?」 やっぱり。岩崎、最近チクってなかったんだ。 助かっているのは事実だけど、頼んだ訳でもなければ礼を言う義理もない。ともかく、宗ちゃん側の人間とこれ以上関わり合いになるのはごめんだ。 そう思って完全に無視して立ち去ったつもりなのに、岩崎が同じ歩幅でついてくる。「傷はもう大分よくなった?」とか何とか言いながら。 「ついてくんな」 「だって俺もこっちに用事あるしー」 うざ……。 巻きたくて、曲がりたくもない廊下を曲がると、それにも岩崎はついてきた。振り返って睨み付けると、岩崎はニヤニヤと笑った。 「なんだよ!」 「まーまーそうカッカすんなって」 「うぜえ」 「さ、行くよ」 「はあ?」 「俺ん家」 「行かないって言ってるだろ!」 うざったい気持ちを前面に出して言ってるのに、岩崎はまだヘラヘラして、「あ」と何か思い付いたように手を叩いた。 「この間キモいって言ったこと怒ってる?あの時はちょっと俺もドーヨーしちゃって。てか、実際怖いっしょ、あの傷。けど、愛由君の事本気でキモいとかは思ってねえからさ、許して!このとーり!」 岩崎は顔の前で手を合わせてごめんのポーズを作った。 ………と言うか、そんな事を謝るくらいなら、「しゃぶれ」と言ったことや、「犯す」と言って引き倒したことの方を謝れよと思う。言わないけど。 「ぶっちゃけ愛由君まじで可愛いからさぁ。そりゃミスターもメロメロになるって。な、チクんないでやってるんだからさぁ、俺とも仲良くしよーよ。俺、ゲイじゃないけど、愛由君なら抱ける気がしてるんだわ。てか、寧ろ抱きたくてたまんないっつーか…………」 まだ何か言ってるし、ちょこちょこ聞きたくない単語も聞こえてくるから、もう岩崎の声を意識的にシャットアウトすることにした。無視してれば、飽きてその内立ち去ってくれる事だろう。 ……思うのは、心配なのは、由信の事。友達がこんな奴で大丈夫かって……。 「なあ、聞いてんの?」 暫く無視していたら、さっきまでとは明らかにトーンの変わった口調が耳に入ってきた。思わず目を向けた岩崎の顔つきも、何だか怖い。 ……完全無視は、岩崎は随分と苛つかせてしまった様だ。 どうしようと思いながら何も言えずにいたら、両肩を掴まれて揺さぶられた。「聞いてんのか!」とか何とか怒鳴られながら。 あ。 今度は不可抗力に思考停止していくのが分かった。 「俺の事無視しやがってただじゃおかねえからな!」 そうだった。岩崎って普段ヘラヘラしてるけど、割とキレるやつだった。この間もそうだった。 「………ぷっ!」 停止した頭では……いや、普通に思考が働いていたとしても理解しがたい事が目の前で起こった。 「か~わい~!」 ぷくくく、と岩崎が笑っている。 「ジョーダンだよ、怒ってないよ。怖かった?ごめんね。もう大丈夫だよ」 岩崎は急に猫撫で声を出しながら、自然な動作で俺に近づいた。そして……。 「ほんっと可愛いね。彼氏の気持ち、ちょっと分かっちゃうなぁ。何かさぁ……虐めたくなる」 抱き締められて、耳元で囁かれた言葉のインパクトに、俺の頭はようやく働き出す。 「っなせ!」 岩崎の身体を押し退けて後退りした。 ニヤニヤ笑った岩崎が、俺が離れた分距離を縮めてくる。 「なあ、そこのトイレでイチャイチャしよっか」 何言ってんだ、あり得ない。 けど、運が悪い事に岩崎を巻こうと曲がった先は極端に人通りが少なかった。今のところ誰ともすれ違っていない。 「本当は家でゆっくりじっくりしたかったけど、愛由君抱き締めたせいでもう……ね。それに……」 そうでなければ、岩崎だって廊下でこんな風に大胆な事仕掛けてこなかっただろうに。 「一秒でも早く愛由君を俺のにしたい」 ガッと腕を掴まれる。手首の傷に響いて痛くて、一瞬怯んだ。その隙を見逃さなかった岩崎は、そのまま俺を引っ張ってトイレに連れ込もうとする。 「はな、せ!」 「いーじゃん、減るもんじゃないし。愛由君だって好きでしょ?気持ちいい事」 ぎゅうっと力任せに握られ引っ張られる手首から発せられる痛みは、まるで宗ちゃんから受ける暴力を連想させられて、ズキズキする度に戦意を喪失させる。 このままじゃまずい。そう頭では分かっているのに――――。 「何してんの?」 突然声をかけられたと同時に岩崎の力が緩んで、唐突に俺の左腕は解放される。一応できる限りの抵抗はしていたらしい俺の身体は、反発していた力を突然無くし、勢い余って尻餅を着きそうになった。けど、実際はそうはならず……。 「及川、だいじょーぶ?」 俺の身体を後ろから支えてくれたこの声の主が誰なのかは、振り返らなくても分かっている。 「土佐……」 けど、俺よりも一足早くその名前を呟いたのは、目の前で呆然としている岩崎だった。 「えーと……岩崎、だったよな」 土佐の口調は相変わらず能天気だ。けれど、いつもと違うと思うのは、これまでに俺が聞いたことのない種類の剣呑な響きが、ほんの僅か含まれていたから。 「なんだよ、邪魔すんなよ!」 その威圧感の様なものを、岩崎も感じ取っているのだろう。威勢だけはいいが、自信なさげに視線を彷徨わせている。 「わりい。でもなんか、及川嫌がってるみたいだったから」 「か、かんけーねーだろ!次期ミスター様にはよ!」 「何言ってんだ、関係大アリ」 「あぁ!?」 「だって及川は俺の大事な……トモダチだから」 心なしか、俺の肩を掴む土佐の手に、少し力が籠ったのを感じた。 「だ……だったら何だよ!」 「……最後まで言わせんなって」 喧嘩腰の岩崎とは対照的に土佐は終止穏やかに答えていると言うのに、やっぱりどっしりとした威圧感と攻撃性があって、それに押し負けたのか岩崎が一歩後ずさった。そして、 「……けっ!その大事なオイカワの事、てめえはどこまで知ってるんだかな!」 そんな捨て台詞を残して、岩崎は俺達に背中を向けた。

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