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夏の終わり
「及川ー、麦茶とオレンジジュースどっちがいい?」
「……オレンジジュース」
「おっけー」
ここは、土佐の家だ。
岩崎とのやり取りの後、俺が午前中まるまる空いてしまった事を知った土佐は、にかっと笑って「俺もサボり」と言った。
「家に来いよ」と言われて、お約束の様に一回断って、けど、「いいから」って言われて、またお約束の様に頷いたのは、紛れもなく俺が自分の意思で土佐の家に行きたかったからだ。
こんなことが宗ちゃんに知られたら大変な事になる。けど、岩崎がこれまでの事を全部喋るとしたら(要求をのまなかったのだから、きっと喋るのだろう)、罪がひとつくらい増えたところで俺はどのみち死刑なんじゃないかと思ったのだ。
だから、もういいのだ。どうせ死ぬのなら最後に自分の望むことをしたい。
はいどーぞ、と置かれたのは、リクエスト通りの濃いオレンジ色。持ち上げたらカランと氷が涼しげな音を立てた。
「大分涼しくなってきたよなー」
「そうだな」
目の前に座った土佐も、同じく涼しげな音を立てて、オレンジジュースの入ったコップを傾けた。
土佐は、さっき大学で起こった出来事について何も聞いて来なかった。岩崎の言った捨て台詞の事も、俺と岩崎の関係も、何も。
ただ「大丈夫か?」と俺に一言聞いて、俺が黙って頷いたらそれっきり。スイッチをオフするみたいにいつもの能天気な土佐に早変わりしてこの調子だ。詮索されたくなかった俺にとっては有り難いけど………。
「このおんぼろクーラー、暫く使ってねーなー。及川がいた頃はフル稼働だったのにさ」
土佐はリラックスした様子で後ろ手に体重をかけると、斜め上にあるクーラーを見上げて言った。
―――あの頃は茹だるように暑かった。ここは宗ちゃんの家みたいに気密がよくないし、きっと機械自体の性能も違うからクーラーの効きもイマイチで、土佐とふたりで「あちーあちー」ってよく言いあっていたっけ。
「すっかり秋っぽくなっちゃったな」
「ああ」
土佐が少し物悲しそうだ。それに引き摺られ、俺も寂しい様な悲しい様な気持ちになってしまったのが腑に落ちない。ただの季節の移り変わり。毎年やってくる、当たり前に繰り返されてきたルーティンなだけなのに。
「今日とかちょっとさみぃしさ」
「そうだな」
もう長袖を着る日も増えた。ちょっと袖を捲れば見える醜い傷跡は、消える間もなくまた新しくついてしまうから、今でもバングルや時計は欠かせない。もう宗ちゃんに命令されるんじゃなく、自分でつけてる。この二つに愛着なんてないけど、例え長袖を着ててもこれなしでは落ち着かないくらいには、安心感を貰ってる。
「秋ってあんま好きじゃねーんだよな。春に似てるけどさー、これから寒くなる前触れじゃん?夏が来るってうきうきとは大違いだよなー。しかもなんか食欲すげーし。やっぱ部活やめると筋肉落ちるんだよ。俺最近ちょっと走って、筋トレしてたんだぜ。グランプリとるために、涙ぐましい努力してんのよ………」
「だな」「うん」「分かる」「すげーじゃん」
適度に相槌を入れれば、土佐が色んな事を勝手にしゃべってくれる。その内容はバカバカしいほど平和で、心地いい。ずっと聞いていたいくらいに。
―――――分かった。
俺が少し物悲しい気持ちになったのは、これを失うのが寂しいからだ。土佐と「あちーあちー」言い合っていたあの頃。束の間の平和。あれが、俺の夏の象徴だった。土佐は、夏が似合う。あの刻はもう終わってしまったし、今だって刹那の………。
夏が終わる。土佐との平和な刻も終わる。クソみたいな俺の人生も――――。
「………あ、わりいわりい。及川、漫画読みたかった?」
考え事をしていて生返事だったのに気付いたのか、土佐が話をやめてしまった。
「いや……」
「遠慮すんなって」
俺が好きだった漫画の最新巻。それがもう発売されたとか。土佐がしきりにそれを読む様勧めてくる。俺はまだ土佐の声を聞いていたいのに。
「黒幕、今回はちゃんと出てくるぜ」
ああそうだ。そんな話だった。そんな事が気になっていた頃が、たった3ヶ月前だなんて信じられない。
前に土佐の家で漫画を読んだあの時も、もう既に俺は袋小路に追いやられていたけど、それでも今よりは状況はマシだった様な気がする。
「漫画はいい。読まない」
はっきり答えると、土佐は目を丸くして俺を見た。そしてその後すぐに、何かを探る様に目を細めた。
追求されるって、空気で感じた。土佐はやっぱり俺を訝しんでいる。
「………じゃあさ、なんかしたいことある?」
けれど、土佐の口から出た言葉はそれだった。
「…………」
「疲れてるから寝たい、でもいーし、何でも。及川のしたいこと、何でもいーから言ってみ?」
俺が答えに窮していると、土佐が小さい子供を諭すみたいに優しくそう言った。
普通なら、「バカにしやがって」と突っ込むべき所。けど、妙に心地が良くて、たとえフリだとしてもとても怒る気にはなれなかった。
「…………寝るのは、もったいないって思う」
ちょっと考えて、それだけ答える。
確かに、寝ろと言われれば秒で寝れそうな程いつも疲れきってる。けど、昨日は比較的寝れたし、何よりも折檻も酷いセックスもなしだったから、いつもに比べたら格段に身体の調子はいい。痛いところがないわけではないし、疲れてない訳でもないけど、もしかしたら生きていられるのは今日までかもしれない。そう思うと、この時間を一分一秒だって無駄にしたくない。けど、何がしたいのかと問われると難しい。敢えて言うなら、『ここにいたい』。ただ、それだけだったから。
「お、及川………?」
気づくと土佐が居心地悪そうにしている。ちょっと土佐の事をじっと見すぎたのかもしれない。
「いつなんだ?」
「え?」
「ミスターの発表」
空気を変えようと思って、唐突だけど気になっていた質問を投げ掛けてみた。
岩崎が『次期ミスター』って呼んでいたのは間違いなく土佐の事だ。土佐が前言ってた『有名人』って言うのは確かにそうで、そんな風に言われてるってことは、土佐はかなり優勝に近いのだろう。
死ぬ前に土佐がミスターとやらになる姿を見たいな、何て思っていたら、土佐が苦笑した。
「……相変わらずだなぁ、及川は」
「え、何が?」
「いや別に。……週明けすぐだぜ、発表」
「え……」
週明けって、今日金曜だから本当にすぐだ。
「お前、こんなことしてて大丈夫かよ……」
「こんなことって?」
「サボり」
あんど俺の相手。こんな事してる暇あったら、有権者?への挨拶回りとか、もっとやるべき事あるんじゃないのか。
そう聞いたら、「そんな事しねーよ」って土佐が可笑しそうにクスクス笑った。「ミスターだって風邪くらい引くし、たまにはこーして息抜きもしねーと」だって。風邪とか思いっきりサボるための仮病だし、息抜きするにしたって、決勝ステージ?直前にやることじゃないだろ。
「あ、そーだ及川」
何を言ってものらりくらりの土佐が、いたずら顔でこっちを見た。
「なんだよ?」
「俺とデートしねえ?」
何を思い付いたのかと思えばそんなアホな事を言ってしししと歯を出して笑う土佐に反射的に「バカじゃねーの」と答えながら、けど、つられて胸のモヤモヤが薄くなっていくのを感じる。
ああ。やっぱり俺はいつも、この明るさに――――――。
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