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傷痕 1
土佐に怒鳴られたのは、初めてだった。いつも笑ってて能天気な土佐が、こんなに感情を剥き出しにする姿を見たのも―――。
「……ひとつだけ言っておきたいんだけど……」
もう身体は密着していない。
互いに冷静さを取り戻しつつあるけど、でもまださっきまでの勢いに乗って素直に胸の内を明かせる、そんな時間だ。
「俺、お前の事どーでもよくない」
「……じゃーなんで勝手に死のうとした?俺が悲しむかもとか、思わなかった?」
「俺は……お前に軽蔑されたと思ったから。お前の方から、もう俺は切り捨てられるだろうって思ってて……」
「なんでそんな事……」
土佐が言いながら、途中ではっとしたのが分かった。
「あんな……事ぐらいで、軽蔑するかよ!そんな簡単に切り捨てる訳ねーだろ!お前の中で俺はそんな薄情な人間なのかよ!」
「…………ごめん」
「俺はな、お前の事すげー大切なんだから。だから、勝手にいなくなるなよ。俺を、悲しませんな。よっしーだって、ぜってー悲しむからな。それこそ立ち直れねーよ、よっしーも、俺も……」
「ごめん……………」
初めての経験だった。謝る度に、心が温かくなるなんて。
俺は、ここまで言って貰ってもまだにわかには信じきれないくらい、土佐にとって大きな存在だったらしい。
俺は勝手に諦めていた。土佐の事も、由信の事も。話せば理解してくれるかもしれないのに、その努力すらせずに勝手に自己完結して逃げていた。あまりに臆病だった。
由信も、分かってくれるだろうか。俺が望んで裏切った訳ではないって事………。
――――だめだ。こっちはまだ自信ない………。土佐の懐が深すぎるだけなのかもしれないから………。
「あのさ、土佐…………」
「ん?」
「………さっきの、事……大学での……。……出来れば、忘れて欲しい」
「おう……分かった」
本当は、そんな簡単に忘れられる訳ないことは分かっている。あんなところを見られてしまった。その事実は変えられないし、変わらない。それでも、土佐が迷いなく頷いてくれた事で、ほんの少し気持ちが軽くなった様に感じる。
「……なあ及川。何で死のうとした?何に悩んでたんだよ」
ずっと、悩んでた。死のうとして、死にきれなかった時から、ずっと。それは、宗ちゃんの所に帰るべきか否かということ。
けど、結果的に俺の足はここに……土佐の家に向いて、そして、土佐に『死のうとした』ことまで打ち明けたのだ。その時点で、もう俺は一歩を踏み出し、後戻りできない所に来ていた。それでもまだ、自分の口で宣言することを躊躇っている。それが言葉になったら、もう本当に、取り返しがつかないから。
「及川、聞かせてくれよ」
土佐の眼差しが真剣だ。
俺は、何度か深呼吸をした。そして、すうっと息を吸って、自分の足をもう一歩前に進める為に口を開く。
「逃げ出したくて」
「……何から?」
「宗ちゃん、から」
「天城先生と別れたいってこと?」
俺は頷く。
「別れたいけど別れられなくて、死にたくなったの?」
……そんな単純で簡単な話ではないけど、ざっくり言えばその通りなのだろうから、俺はまた頷いた。
「それだけ?死ぬほど嫌なら、別れればいいだけじゃん」
土佐の言うことはもっともで、死ぬくらいなら、死ぬ気で逃げればいいのだ。それで殺されたとしても、何もせずにただ言いなりになって殺されるよりも、有意義な死だ。
「ほんとそうだよな。俺バカだった」
怖くない訳ではない。むしろ不安で一杯だ。けど、行動を起こした以上、全力で。由信には申し訳ないけど、土佐の言うのが正しければ、由信が被るダメージは『俺が死ぬこと>美咲さんと別れること』らしいから、都合よくそれを自分に言い聞かせることにした。そうしないと、どうしても迷ってしまう。由信の幸せを優先して、自分を犠牲にしたくなってしまうから。
俺は逃げるんだ。逃げる。全力で逃げるんだ。そう、自分に言い聞かせる。
「及川。別れられない理由が、何かあるんじゃないのか?」
土佐の鋭い質問にドキッとしたけど――――。
「ないよ」
俺は首を横に振った。
土佐を巻き込みたくない。
土佐は優しすぎるから。きっと本当のことを知れば、俺を助けようとしてくれる。宗ちゃんは異常だから。何をするかわからないから。土佐が全てを知って、宗ちゃんに何か言ったりしたら、絶対によくないことが起こる。そう思うから……。
土佐との話が済んだら、ここを出て、どこか遠くに逃げるつもりだ。金も頼れるツテもないけど、本気になればなんとでもなるだろう。ホームレスになったっていい。それで宗ちゃんから逃がれられるなら。
ここに来てよかった。土佐に会って、よかった。こうして最後に土佐の優しさに触れてなかったら、逃げようと逃げまいと遅かれ早かれ俺は死んでたと思う。けど、今は絶対に、何をしても生き延びてやろうって思ってる。宗ちゃんから逃げ切れたら、その時は、また――――。
「本当に何もないのか?」
土佐が訝しげに聞く。それに、ごめんって思いながら頷いた直後だった。土佐が、俺の腕を乱暴に取った。
「嘘ばっか」
え……………。
「これ何だよ。この傷」
土佐に持ち上げ気味にされた腕は、袖が完全に肘の下まで上がってしまっていて――――醜い赤黒い傷跡が、むき出しになっていた。
慌てて腕を奪い返すけど、もう遅かった。土佐は確信を持った顔で言った。
「お前、天城先生から暴力振るわれてるんだろ」
言われた途端、頭の中がかーっと熱くなった。
聞きたくなくて、知られたくなくて、思わず耳を塞いだ。
この感情は、紛れもなく羞恥だ。土佐に知られたくなかったことをまた知られてしまって。そして、みじめな自分を突き付けられて――――。
「……漸く、全部わかったよ。お前がいつも辛そうにしてた理由……」
土佐に、やんわりと耳を塞いでいた両手を外される。
「俺、悔しいよ。何で今まで気づいてやれなかったんだろうって。お前、転んだとか、全部嘘じゃん。別れられないのだって、そういうことなんだろ?何で言ってくれないんだよ。なんで俺、気づかなかったんだよ……」
「……違う。これは、別に……」
「今更ごまかすなよ!もう分かってるから。お前が死にたくなった理由も………。けど俺、お前の口から聞きたかった。お前、どうしようもなくて、俺を頼ってきたんだろ?俺しかいなかったんだろ?そう己惚れていいんだろ?なのに、なんでちゃんと話してくれねーんだよ!」
ああ、もう……認めるしかない………。
「お前を、巻き込みたくなかったんだ……」
自分で言っておいて思う。随分勝手な奴だと。これだけ頼っておいて。助けて貰っておいて、肝心なところで嘘をつくなんて。
「もう俺、巻き込まれてるから」
本当にその通りだ。土佐を巻き込んだのは俺だ。本当に勝手すぎる……。
「本当にごめん……」
「そうじゃなくて!……俺は、お前が好きで、大切で、大事だから……!だから……っ、放っておける訳、ないだろ………!」
土佐は、ぎゅっと握った拳を震わせていた。
もうとても、嘘をつき続けることはできなかった。
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