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蜘蛛の糸 1
「帰るか」
「うん」
まだ恋人になったわけじゃない。及川の気持ちをはっきり聞いたわけでもない。けど、及川は変わらない距離感で俺のすぐ隣にいてくれて、俺を頼ってくれていて。それだけでいい気がした。それが及川の答えだって。及川が俺を利用してるとか、嘘をついてるとか、そんなことは絶対にない。だって、俺こんなに今幸せだから。こんな幸せな気持ちをくれた及川の態度が、言動が、可愛さが、全部嘘なんて、そんなの絶対に絶対にあり得ない。
警戒しながら相変わらずの人ごみを歩いて、大学を出た。あとは、駐車場に停めてある車まで到着できれば、今日を乗り切れる。そう思ってちょっと気を抜きかけた、そんな時だった。
「土佐健くんだよね?」
近づいてきたのは、スーツを着た男二人組だった。俺はとっさに及川を身体の後ろに隠した。
「そうですけど……」
「こういうものですが」
男の内の一人が、パスケースの様なものを開いて見せてきた。そこには証明写真と、「巡査長」の文字が書かれていた。
「警察……?」
え、何で……?確かに相談に行こうかなって思ってたけど、及川に反対されてやめることにしたのに。……って、違う。そんなん関係ない。向こうからくるの、おかしいから。
「ちょっと持ち物を見せて貰いたいんだけど」
「はい……?」
「いわゆる職務質問だよ」
「え、なんで……」
だってここ、まだ大学の敷地内だし、何でこんなとこで職質なんか……。
「ちょっと気になるタレコミが入ったので。ご協力お願いします」
警察は一見にこやかだけど、有無を言わさないって感じで威圧感は凄い。拒絶したら、何か言いがかりをつけられそうなぐらいの……。
「どーぞ」
一刻も早く安全な家に帰りたかったけど、俺は背負っていたカバンを巡査長ってやつに渡した。ここでクレームをつけて言い争うより、その方が早いって思って。タレコミって言うのは謎だけど、荷物検査でも身体検査でも何だってすればいい。何もやましいことはないんだから。
「土佐……」
俺の背中のすぐ後ろにいる及川が、クイっと服を引っ張って小さな声で名前を呼んだ。
「心配いらねーよ」
「けど、なんかおかしい……」
「手荷物の方は大丈夫ですね」
俺のリュックの中身を検めていた警察が、今度はポケットの中を見せろと言ってきた。
「いーですけど、何もないですよ?」
ポケットに入ってるのはスマホとかカギとかくらいだ。あ、あとスース―するタブレットがあった。ラムネみたいなあれだ。
警察はタブレットの中身を全部出して調べだした。おい、弁償しろよ。
「ポケットも大丈夫ですね」
今度は服の上から身体を触られる。何なんだよ、一体……。
「ええと、あちら、ご本人の?」
警察が俺の車を指さす。
「そうですけど」
「車の中も、見させてもらっていいですか?」
「車も?」
もうそろそろ、いい加減にしてくれよ。
「これで終わりますので」
これで最後。そう言われて、俺は車のキーを開けた。
「時間の無駄っすよ」
嫌味の一つも零れる。普段ならまだしも、何でこんなに急いでる時に限って……。
「土佐……俺、嫌な予感がする……」
及川が後ろから、さっきよりももっと小さな声で言った。調べる所を見ててくださいって言われてるから、俺は警察がガサゴソしてる車のすぐ傍でその作業を覗き込んでいて、後ろにいる及川の表情は見えない。ちょっと前にテレビで、自分で違法な薬を仕込んで手柄を取った様に見せかける悪徳警官の話を見た。そんな事されない様に、しっかり見てないと。
「だいじょーぶだよ。変なもん積んでないし」
仕込まれたりしない限りはな。だって明らかに違法なものは間違いなくないし、怪しまれるようなものも、何も。
「あれ、これは何でしょうね」
警察の声に、及川が大げさなくらいびくっとしたのが背中越しにでも分かった。
「なんすか」
またタブレットみたいなものを怪しんでいるんだろうなって思いながら、警察が指している先を見たら──。
「え、何だよ、それ……」
開け放たれたダッシュボードの中にあったのは、小さくパッケージ詰めされた白い粉だった。それは、よくテレビで見る、いけない薬の外観そのものの。
「これは怪しいですねぇ」
「嘘だ……」
こんなの、入れた覚えはない。知らない。俺のじゃない。
「ちょっと簡易検査させてくださいね」
もう一人の警察がポケットから出した瓶に、巡査長が手際よく粉を入れる。
「色が変わりましたね。これが違法な薬物である証拠です」
サーッと鮮やかな褐色に変わった瓶。『違法な薬物の証拠』という言葉。そんな筈ない。そんな筈───。
「そんなのおかしい!それは絶対に土佐のものじゃない!」
威勢よくそう言ったのは及川だった。その声で、ちょっと放心状態だった俺も我に返る。
「そうです、俺のじゃないです!そんなの知らないし、触ったことも、見たこともありません!」
「でも、これは君の車だよね?誰かに貸したとか、した?」
「してないけど……」
何で。何でこんなものがここにあるんだ。考えろ。考えろ。いつ、誰に、仕込まれた。どこかに、答えがあるはずだ。考えろ――――。
「あ……」
思い出したのは、今朝の違和感。あの匂い。及川がいるから、及川の匂いがするだけかって思ったけど、バカだ。それを感じた時及川は車に乗っていなかったし、それに、あのシャンプーの匂いは、及川が天城先生のところにいた時にさせていた匂いで、今その匂いが及川からしてくるわけがないのだ。つまり、あの匂いは――――。
「天城先生!これを仕組んだのは、天城宗佑ってやつです!間違いない!今朝、あいつがこの車に侵入したんだ!」
「詳しい話は署で聞きますので、ご同行願えますか」
え……。俺は、反射的に及川を振り返った。及川は両手で自分の身体を抱いていた。肩が大きく上下している。かなり、呼吸が荒い。
「及か、」
心配で声をかけようとしたら──。
「違う、土佐じゃない……!連れていくなら、俺を連れて行ってください!」
ずっと俺の後ろにいた及川が俺よりも一歩前に出て、警察に詰め寄った。
「何言ってんだよ及川!」
「俺が悪いんです!俺のせいで……!」
「ええと、それは、これがあなたのものってこと?」
「違う……けど、そう思われてもいい!土佐が疑われるくらいなら、それでいいです!」
「及川!」
「ちょっと話がよくわかりませんねぇ。じゃあ、オイカワさんも一緒に来てもらいますね」
「違うって!こいつは関係なくて……」
言いながら頭を掠めたのは、じゃあ及川をここに一人残していいのかって事だった。俺は、どうあがいてもこれから警察署に行かなきゃならない。そうしたら、及川は一人だ。誰にも守られず、一人になる。きっとそれが天城先生の狙いで、こうなるタイミングを虎視眈々と狙っていたんだ。残された及川はどうなる?そんなの、考えなくても一目瞭然だ。
「応援呼びました」
覆面パトで無線を使っていた若い警察が戻ってきて、巡査長にそう報告する。
「じゃあ、及川くんは私と」
さっき巡査長から説明を受けた。二人を別々に警察署に連れていかないといけないって。どうか一緒にって懇願したけど、ダメだった。
及川……。俺、及川の傍を離れないって。俺がこの手で絶対守るって決めたのに──。
巡査長が、及川の腕を取った。「及川に触るな!」とは、思ったし言いたかったけど、言えなかった。普通の状況なら何の関係もない及川の連行は絶対に阻止しただろうけど、俺がどうにもならない以上、及川を一人ここに置いていくよりも、警察と一緒の方が安全だから───。
「土佐、ごめん。こんなことになって、本当に、本当に、ごめんなさい……」
及川の声は今にも泣き出しそうだった。一緒についていてやりたい。強くそう思ったけど、今はそうできない事がもどかしくて堪らない。
ああ、俺はどうして、車に乗って、違和感を覚えた時にすぐにちゃんと調べなかったんだろう……。
「及川、心配いらない。いいか。本当の事だけを話せよ。絶対に嘘はつくな。それだけは約束してくれ」
俺は自分の事責めて、悔しくて、苦しかったけど、及川に平気だって、大丈夫だって所を見せたくて、元気な声を出した。俺が今一番怖いのは、及川が俺の事を庇って罪を被ろうとするんじゃないかって事だったから。弱った姿なんて、とても見せられない。
及川が潤んだ目で俺を見つめて、口を開いた──。
「行きますよ」
その時、巡査長が急かすように及川の腕を引いた。及川は結局、何も言えないままに俺に背を向けた。
その後ろ姿は、背中が丸まってしまうくらい俯いていて、あまりにも頼りない。何も悪い事してないのに、及川は罪悪感で押し潰される寸前みたいに見えた。違うのに───。
「及川は悪くない!だから自分を責めるな!何ひとつ、及川のせいじゃないんだから!」
俺は、ちょっと遠くに停まってる車に乗せられる寸前の及川にも聞こえるくらいの大声で叫んだ。若い警官に静止されても、その車のドアが閉まるまで、何度も、何度も───。
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