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蜘蛛の糸 3

「もうすぐ来られますかね」 村田の問い掛けに、藤沢は「そうだねぇ」と大げさに腕時計を見る仕草をして、村田ではなく俺に視線を向けた。 「もうすぐ、お偉い方が見えるからね。その時はもっともーっといい子にすること」 藤沢は俺にそう言った後、村田と視線を合わせて意味ありげにニヤニヤ笑った。 胸騒ぎがする。宗ちゃんは医者であって、警察から『お偉い人』何て言われる立場にあるはずないのに、宗ちゃんの気配を、すぐそこに感じてしまって───。 コンコン。 それは、答え合わせをするみたいなタイミングだった。 俺は息をのんで、村田は弾かれた様に立ち上がった。 「思ったより早かったね。もう少し愛由くんいじめてたかったのになぁ」 扉の方に向かおうとしていた村田を制して、藤沢がドアに手をかける。 キィっと嫌な音がしてドアが開いた先にいたのは───。 「お疲れ様です」 「ああ、藤沢くんも、ご苦労だったね」 そこにいたのは、想像していた人ではなかった。けれど、俺にとっては二度と会いたくなかった人には違いなくて───。 「その顔は、ちゃんと俺の事を覚えている顔だ。最下層の人間の割には、記憶力は悪くないみたいだな」 ───忘れられる訳ない。その人の尊大な態度、人を見下した喋り方、威圧感。 「虫けら同様の身分の癖に、よくも息子をコケにしてくれたな」 その人が、さっきまで藤沢たちが座っていたところにどかっと座って、残虐な笑みを浮かべて言った。 むすこ……?どういう事。訳が分からない。一体どうしてこの人が───幼いころ俺をさんざん虐め抜いたあのおじさんが、ここに───。 「やっぱり低能の子供は低能だな。まだ分からないらしい」 名前を知らないおじさんが、嘲笑う様な口調で言った。藤沢と村田も、おじさんの機嫌を取るように一緒になって笑っている。 「しょうがないから教えてやろう。お前の恋人の天城宗佑は、俺の息子だ」 え────。 「うそだ……」 「そんな嘘をついて何になる?まったく、宗佑はこんな浅ましい類の人間に心まで奪われてしまって……。まあ、その見た目だ。夜の相手をさせるには具合が良いのだろうが」 また、俺をバカにしたような笑い声が起こる。それが、どこか夢の中みたいな状態で耳に入ってくる。こんな現実は酷い。認めたくない。俺を今散々苦しめている宗ちゃんが、幼い頃の俺を苦しめたこの人の……子供だったなんて───。 「さあ立て。行くぞ。息子を裏切ったお前には、息子の愛人として相応しくなるまで、俺が直々にきっちり躾けをしてやるから」 宗ちゃんの……愛人────。 「……いや!いやだ!俺はもう宗ちゃんの所には戻らない!」 宗ちゃんの父親に腕を掴まれた俺は、とっさにそれを振り払った。忌々しげなチッという舌打ちと、「往生際が悪い」という言葉のすぐ後に、俺は両側から身体を押さえ付けられた。 「立て!」 いつもへらへらしている藤沢から強く恫喝されても、俺は言うことを聞かなかった。 「往生際が悪いぞ」今度は村田からそう言われた。自分でも、確かにそうだと思う。この状況で逃げられるはずないし、俺自身、これが宗ちゃんの仕組んだことである以上、もう捕らえられたも同然だと諦めていたはずだった。けど、だからと言って素直に従えるほど、俺は覚悟が決まっていなかった様だ。だって、怖くて怖くて堪らない───。 「宗佑は随分と甘い躾をしていたらしいな」 吐き捨てる様な声。身体を押さえられたらもっともっと怖くなって無我夢中で暴れた俺は、二人がかりで拘束され、手錠をかけられ、床に這いつくばらせられていた。 「どうしますか?このまま車まで連れて行きましょうか?」 「いいや。あまり騒がれても困る。……はまだ拘留しているんだろう?」 「はい。現在別室で取り調べ中です」 俺の頭の上を飛び交う会話は、もはや耳に入ってこない。嫌だ。連れていかれたくない。宗ちゃんも、このおじさんも、どっちも嫌だ。帰りたい。土佐の所に。土佐───。 「おい」 「おい!」 「聞け!」 俺を抑えているどちらかに、ガッと髪を掴まれ、頭を持ち上げられた。目の前で、宗ちゃんの父親が腰を屈めて俺を見下ろしている。 「お前の、お前のせいであらぬ嫌疑をかけられているそうじゃないか」 「土佐……」 さっきから土佐の事を思い出して泣きそうだったのに、その名を口にしたら、もっと泣きそうになった。 土佐、土佐、土佐、土佐─────。 「随分愛しそうに名前を呼ぶんだな。こんな調子なら、宗佑はさぞや苦しかっただろう、可哀想に」 つ、と涙が頬を伝った。 この人は、藤沢が言う様に、お偉い人だ。それは、二人の態度から明らかで、そして──この「事件」は俺が思っていた以上に精巧に作られた罠だった。警察もグルなら、逃れる道はひとつもない。 だったら、この権力者に対して俺がやらなきゃいけないのは、土佐の為にできることは、ただひとつで───。 「土佐を……助けてください。お願いします……」 「どうすれば救えるか、分かるよな?」 こくりと頷くと、その人は「話が早くて助かる」と言って、ニヤリと笑った。 「立て」 もう一度、同じ命令が今度はその人から発せられた。 俺は手錠のつけられた両手を床について、命令通りその場で立ち上がる。 「さあ行こう」 藤沢が、俺の手から手錠を外した。 おじさんの後ろについて部屋を出た俺の両側には、ぴったりと藤沢と村田がついている。手錠を外されていたって、俺にはもう逃げる事なんてできないのに───。

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